なぜ後継争いが畿内全体の戦争になった?
実子がいなかった
政元には実子がなく、澄之・澄元・高国ら複数の養子がいました。後継候補ごとに細川一門・被官が分かれ、暗殺直後から武力衝突になります。
将軍も二つに分かれた
足利義稙と義澄、次いで義晴・義維のどちらを支えるかが、細川各派の正統性と結び付きました。京兆家の家督争いと将軍位争いは切り離せません。
地方の軍事力が必要だった
澄元・晴元方は阿波の三好氏を、高国方は摂津・丹波などの国人を頼ります。京都を取っても、周辺国の軍勢と城を押さえなければ維持できませんでした。
主従が逆転した
晴元を支えた三好長慶は、やがて細川氏綱を掲げて晴元を追放します。細川当主を支える被官だった三好氏が、畿内政治を動かす側へ回りました。
1507年から1549年までの転機
1507
細川政元が家臣に暗殺され、澄之が家督を継ぎます。しかし高国・澄元方が澄之を倒し、勝った側も高国派と澄元派へ分裂しました。
1508
高国は前将軍・足利義稙を奉じて京都へ戻し、義澄を支える澄元は近江・阿波へ退きます。細川家督と将軍位の争いが一体化しました。
1520
澄元・三好之長方が一時京都を奪いますが、高国方が反撃。之長は処刑され、澄元も同年に死去し、幼い晴元が陣営を継ぎます。
1527
晴元・三好元長方が桂川原の戦いで高国方を破ります。将軍・義晴は近江へ退き、晴元方は足利義維を中心に堺公方府を築きました。
1531
大物崩れで晴元・元長方が高国を破り、高国は自害。一般に「両細川の乱」と呼ばれる段階は大きな決着を迎えます。
1532
晴元と元長が決裂し、一向一揆の軍勢が元長を自害へ追い込みます。堺公方府は崩れ、晴元は義晴と結び直しました。
1543
高国の養子・細川氏綱が挙兵。高国旧臣らが集まり、晴元方との争いが再燃します。
1549
三好長慶が晴元と決裂し、江口の戦いで晴元方を破ります。晴元と将軍・義晴、義輝父子は京都を離れ、長慶が畿内の主導権を握りました。
陣営は固定されていない
| 段階 | 主な組み合わせ | 何が変わったか |
|---|---|---|
| 政元暗殺直後 | 澄之 対 高国・澄元 | 澄之を倒した後、共同した高国と澄元も家督をめぐって争います。 |
| 1508年以後 | 高国・義稙 対 澄元・義澄・三好氏 | 将軍を京都へ置く陣営と、阿波・近江から復帰を狙う陣営に分かれました。 |
| 1527年以後 | 晴元・義維・元長 対 高国・義晴 | 京都と堺に別の政治拠点が並び、将軍の正統性も二重になります。 |
| 1532年以後 | 晴元・義晴 対 元長旧勢力・宗教勢力 | 晴元はそれまでの義維・元長との連携を解き、かつての敵側だった義晴と結びます。 |
| 1540年代後半 | 氏綱・長慶 対 晴元・義晴/義輝 | 晴元の被官だった長慶が氏綱方へ移り、細川当主を利用して実権を握る側になります。 |
「両細川の乱」という呼び名の注意
「両細川」は主に高国方と澄元・晴元方を指し、1507年から1531年の大物崩れまでを両細川の乱と呼ぶことが一般的です。ただし、政元の後継問題が生んだ対立はそこで完全には終わりません。晴元と氏綱、さらに三好長慶を含む争いへ形を変え、1549年の晴元失脚まで続きました。このページでは、狭い意味の両細川の乱だけでなく、その後に三好政権が生まれるまでを一続きで扱っています。
この争いが残したもの
- 管領家の家督争いが、将軍位・畿内諸国・都市・寺社を巻き込む長期戦になった。
- 京都を一度占領するだけでは政権を維持できず、摂津・河内・阿波などの軍事・流通拠点が重要になった。
- 細川当主の権威は残ったが、それを支える三好氏の軍事力が主従関係を逆転させた。
- 三好長慶は足利将軍を常に京都へ置かなくても畿内へ命令を出し、信長上洛以前の政治秩序を作った。