事件・合戦ページ / 1557〜1558年 / 稲生の後も続いた家督争い

織田信行の再叛おだのぶゆきのさいはん

1556年の稲生の戦いいのうのたたかいで敗れた信行は、母・土田御前つちだごぜんの取りなしもあり、一度は信長に赦されたと伝えられます。
しかし家中の対立は消えず、信行は再び信長に対抗します。信行の死で、信長は家中の主導権を一本化しました。

織田信行末森城家督争いの終結1557〜1558年

稲生の勝利だけでは、家中はまとまらなかった

稲生の戦いで信長が勝っても、信行を支持した家臣や親族との関係がすぐ消えたわけではありません。『信長公記』によると、信長の母が使いを通じて詫びを入れ、信長は信行や柴田勝家しばた かついえらを赦しました。

信長

家督を継ぐ当主として、内紛を終わらせて尾張の外へ進む必要がありました。

信行

末森城を背景に、信長に対抗できる支持をなお持っていました。

土田御前

稲生の後に兄弟の間を取りなしたと伝わります。家督争いが家族の問題でもあったことを示します。

再叛から、家督争いの終結へ

1556年
稲生の戦い

信長は信行方を破ります。信行はいったん赦され、対立は表面上おさまります。

稲生の後
信行が再び信長に対抗する

『信長公記』によると、信行は龍泉寺を城に構え、岩倉城主の織田信安(『信長公記』では織田伊勢守)と結んで、信長が直接治める篠木三郷を奪い取ろうとしました。柴田勝家は、信行が再び謀反を企てていることを信長に知らせます。

1557年または1558年
信行が命を落とす

『信長公記』によると、信長は病を装い、見舞いに来た信行を清洲城で討たせました。殺害の年は資料によって異なります。『信長公記』の明治14年刊本は弘治4年(西暦1558年)11月2日、『愛知県史』第1巻は弘治3年(西暦1557年)11月とします。月日は当時の暦によるものです。

1558〜1559年
岩倉織田氏との戦いへ

信長は1558年に浮野で岩倉方の軍を破り、1559年に岩倉城を開かせます。殺害を『信長公記』の日付(弘治4年11月)とする場合、浮野の戦い(『愛知県史』では永禄元年〔1558年〕の5月と7月)は信行の死より前になります。

この事件が尾張統一に持つ意味

内紛の終結信長に対抗する弟の勢力が消え、弾正忠家の命令系統がまとまります。
家臣の再編柴田勝家・林秀貞はやし ひでさだのように、信行方に立った家臣も後に信長の政権に組み込まれていきます。
岩倉織田氏との戦い信長は1558年の浮野の戦いうきののたたかいを経て、1559年に岩倉城を開かせます。信行の死は、『愛知県史』の弘治3年(1557年)11月なら浮野の戦いの前、『信長公記』の弘治4年(1558年)11月なら浮野の戦いの後になります。

信行の再叛は、信長の冷酷さだけを示す場面ではありません。 尾張の中で一つの家を率いる信長が、家中の主導権を固めた局面として読むと、1559年の岩倉城攻略までの流れとのつながりが見えます。

ここだけ覚える

  • 信行は稲生の戦いの後も、再び信長に対抗した。
  • 信行の死(1557年とも1558年とも書かれる)で、信長は弾正忠家の主導権を固めた。
  • 信行の死と前後して、信長は岩倉織田氏との戦いを進め、1559年に岩倉城を開かせた。

信行の再叛から、次にたどる

参考にした資料

信行が殺された年は資料によって異なります。『信長公記』の明治14年刊本は弘治4年(西暦1558年)11月2日、『愛知県史』第1巻は弘治3年(西暦1557年)11月とします。月日は当時の暦によるものです。

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