稲生の勝利だけでは、家中はまとまらなかった
稲生の戦いで信長が勝っても、信行を支持した家臣や親族との関係がすぐ消えたわけではありません。『信長公記』によると、信長の母が使いを通じて詫びを入れ、信長は信行や柴田勝家らを赦しました。
信長
家督を継ぐ当主として、内紛を終わらせて尾張の外へ進む必要がありました。
信行
末森城を背景に、信長に対抗できる支持をなお持っていました。
土田御前
稲生の後に兄弟の間を取りなしたと伝わります。家督争いが家族の問題でもあったことを示します。
再叛から、家督争いの終結へ
信長は信行方を破ります。信行はいったん赦され、対立は表面上おさまります。
『信長公記』によると、信行は龍泉寺を城に構え、岩倉城主の織田信安(『信長公記』では織田伊勢守)と結んで、信長が直接治める篠木三郷を奪い取ろうとしました。柴田勝家は、信行が再び謀反を企てていることを信長に知らせます。
『信長公記』によると、信長は病を装い、見舞いに来た信行を清洲城で討たせました。殺害の年は資料によって異なります。『信長公記』の明治14年刊本は弘治4年(西暦1558年)11月2日、『愛知県史』第1巻は弘治3年(西暦1557年)11月とします。月日は当時の暦によるものです。
この事件が尾張統一に持つ意味
| 内紛の終結 | 信長に対抗する弟の勢力が消え、弾正忠家の命令系統がまとまります。 |
|---|---|
| 家臣の再編 | 柴田勝家・林秀貞のように、信行方に立った家臣も後に信長の政権に組み込まれていきます。 |
| 岩倉織田氏との戦い | 信長は1558年の浮野の戦いを経て、1559年に岩倉城を開かせます。信行の死は、『愛知県史』の弘治3年(1557年)11月なら浮野の戦いの前、『信長公記』の弘治4年(1558年)11月なら浮野の戦いの後になります。 |
信行の再叛は、信長の冷酷さだけを示す場面ではありません。 尾張の中で一つの家を率いる信長が、家中の主導権を固めた局面として読むと、1559年の岩倉城攻略までの流れとのつながりが見えます。
ここだけ覚える
- 信行は稲生の戦いの後も、再び信長に対抗した。
- 信行の死(1557年とも1558年とも書かれる)で、信長は弾正忠家の主導権を固めた。
- 信行の死と前後して、信長は岩倉織田氏との戦いを進め、1559年に岩倉城を開かせた。
参考にした資料
- 名古屋市「城山八幡宮・末森城址」
- 名古屋市西区「庄内学区の紹介」
- 国立国会図書館デジタルコレクション『信長公記』巻之上(太田牛一著、甫喜山景雄刊、明治14年〔1881年〕、我自刊我本)(8丁〔デジタルコレクションのコマ14〕:信長の母の使いによる詫びで、信行・柴田勝家らが赦されたこと。12丁〔コマ18〕:勝家が信行の再度の謀叛を信長に申し上げ、信長が病を装い、見舞いに出た信行を清洲で討たせたこと。その日付を「弘治四年戊午霜月二日」と書くこと)
- 国立国会図書館デジタルコレクション『愛知県史』第1巻(愛知県編・刊、昭和10年〔1935年〕。県が編んだ通史)(495〜497ページ〔コマ314〜315〕:信行の赦免、龍泉寺の築城と岩倉城主織田信安との謀議、勝家による知らせ、弘治3年11月に信長が病と称して信行を清須に招き殺したこと、永禄元年5月・7月の浮野での戦い、翌年春の岩倉城の開城。この部分の典拠に『信長公記』と『享禄以来年代記』を挙げる)
信行が殺された年は資料によって異なります。『信長公記』の明治14年刊本は弘治4年(西暦1558年)11月2日、『愛知県史』第1巻は弘治3年(西暦1557年)11月とします。月日は当時の暦によるものです。
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訂正の記録
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- 2026年10月12日 稲生の後に信長が家中を保つために信行を赦したと考えられると書いていましたが、資料では母の取りなしによる赦免と記されているため、その経過に直しました。
- 2026年10月12日 信行が殺された年を1558年と書いていましたが、資料によって弘治3年(1557年)と弘治4年(1558年)に分かれるため、両方を示し、岩倉方との戦いとの前後関係も、どちらの年でも成り立つ書き方に直しました。