人物ページ / 玉縄城を預かり、河越城を守って北条の前線を支えた武将

北条綱成

北条綱成は、小田原北条氏で軍事的に大きな役割を果たした武将です。1515年、今川氏家臣の福島正成の子として生まれ、のちに北条氏の一門に連なり、玉縄城主となります。1545年から46年の河越合戦では、綱成は河越城に籠城し、上杉方と古河公方の連合軍に包囲された城を守りました。外から救援する北条氏康と、城内で持ちこたえる綱成。この二人の役割が重なって、北条方は河越城を失わず、関東の大勢力へ進みます。綱成を追うと、氏康の強さが当主一人のものではなく、城を預かる家臣団の力でもあったことが見えてきます。

1515 - 1587玉縄城主河越城の籠城北条の前線指揮官
北条綱成が守った河越城の現在の本丸御殿
川越城本丸御殿 / Wikimedia Commons / CC0

北条綱成を理解する要点

綱成は玉縄城主で、河越合戦では包囲された河越城を守った北条の将です。氏康の救援軍と城内の綱成がつながり、北条は河越城を守り切ります。氏康の関東進出を、前線から支えた人物です。

  • 立場:河越城を守る将
  • 注目点:玉縄と河越の二つの前線
  • 次につながる:氏康と北条の支城網
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綱成を最初にどう覚える?

玉縄城の城主

綱成は相模の玉縄城を預かりました。玉縄城は鎌倉に近い、北条の重要な前線城です。

河越城を守る

河越合戦で、綱成は包囲された河越城に籠城します。氏康が外から救援するまで城を保つ役です。

氏康を支える

氏康とほぼ同時代を生き、北条の軍事を支えます。当主の判断を、前線で実行する家臣の力が見えます。

玉縄北条家へ続く

子の氏繁、さらに氏勝へと玉縄城主の系統が続き、北条滅亡まで鎌倉方面の前線を支えます。

まずは一本の流れで置く

  1. 1515年、今川氏家臣・福島正成の子として生まれる
  2. のちに北条氏の一門に連なり、玉縄城主となる
  3. 玉縄城を拠点に、鎌倉・三浦方面を意識する北条の前線を支える
  4. 1545年、上杉方と古河公方の連合軍が河越城を包囲する
  5. 綱成が河越城に入り、長期の籠城を続ける
  6. 1546年、氏康の救援で北条方が勝利する
  7. 河越城は北条の武蔵支配の拠点となり、綱成の働きも北条の軍事で重くなる
  8. 子の氏繁らが玉縄城を継ぎ、1590年まで北条の鎌倉方面を支える

綱成の人生を「河越の人」にしてしまうと、少し狭いです。普段の拠点は玉縄城で、河越合戦の時にはその城主が遠く武蔵の河越城へ入る。つまり綱成は、北条の本拠と複数の前線をつなぐために動かされた、信頼の厚い指揮官として見ると分かりやすいです。

ざっくり年表

1512年
北条早雲が玉縄城を築いたとされます。綱成が城主になる前から、鎌倉方面の重要な前線でした。
1515年
綱成が生まれます。小田原市の資料では、今川氏家臣・福島正成の子とされます。
1545 - 1546年
河越城に籠城。氏康の救援と合わせ、北条方が河越合戦で勝利します。
1559年
玉縄城が増築され、北条氏家臣知行役帳に「玉縄衆」の記載が見られます。
1561年
上杉謙信の関東侵攻で玉縄城も緊張する前線になります。
1587年
綱成が没します。玉縄城主の系統は子孫へ続きます。
1590年
小田原征伐で北条氏が滅び、玉縄城も徳川方へ開城します。

人物と城を置く

北条氏綱北条氏二代目。綱成は氏綱の娘を妻に迎え、北条一門に連なります。
北条氏康北条氏三代目当主。河越合戦では外から援軍を動かし、城内の綱成と組みます。
河越城1545年から46年、綱成が包囲の中で守った武蔵の城です。
玉縄城綱成の本来の拠点。鎌倉に近く、北条が相模東部を守る重要な前線城でした。
北条氏繁綱成の子。のちに玉縄城主となり、綱成の系統を引き継ぎます。
北条氏勝氏繁の子で、綱成の孫。1590年、小田原征伐の時に玉縄城主として開城を選びます。

玉縄城主が、なぜ河越城にいた?

玉縄城は小田原から見て東側、鎌倉に近い場所にあります。一方の河越城は武蔵の中央部です。北条氏の城主は、一つの城だけを見ていればよいわけではありません。大きな危機が起きれば、当主は信頼できる将を重要な城へ送ります。

河越合戦では、綱成が玉縄城主として持つ軍事的な経験と人員が、河越城の籠城に使われました。鎌倉市の玉縄城の資料は、綱成が兵3,000で河越城に約6か月籠城し、上杉勢から守り通したとまとめています。兵数は伝わる資料によって幅があるため断定しませんが、長期の包囲を支えたこと自体が、綱成の役をよく示します。

玉縄城

綱成が日常的に預かる相模東部の前線。鎌倉・三浦方面を意識する城です。

河越城

武蔵の重要拠点。北条が失えば北関東への進出が難しくなる城です。

小田原城

氏康が本拠から救援を考える、北条全体の中心です。

綱成の役

一城の城主でありながら、危機には別の前線城を預かる実戦の指揮官です。

河越合戦で、綱成は何をした?

河越城は、扇谷上杉氏・山内上杉氏・古河公方の連合軍に包囲されます。綱成の第一の仕事は、城を落とさないことです。城が早く落ちれば、氏康が救援しても意味がありません。城内の兵・物資・士気を保ち、氏康が動く時間を作る必要があります。

氏康の第一の仕事は、城外から包囲を崩すことです。河越合戦の勝利は、綱成か氏康のどちらか一人だけの手柄として見るより、城内の防御と城外の救援がかみ合った結果として見る方が、北条の軍事の仕組みが見えます。

「勇猛な家臣」だけでは足りない

綱成は河越合戦の籠城でよく知られ、後世には勇猛な将として語られます。それは間違いではありません。ただ、綱成の価値を武勇だけにすると、北条の強さが見えにくくなります。

玉縄城を預かり、玉縄衆という軍事のまとまりを持ち、必要な時に河越城のような重要拠点へ入る。北条氏の当主が関東各地を動かせたのは、綱成のように城と人を預かる家臣がいたからです。綱成は「氏康の家臣」ではありますが、同時に北条の支城網を実際に動かす一つの中心でした。

綱成の後、玉縄城はどうなる?

綱成
玉縄城主として、河越城の籠城など北条の前線を支えます。
氏繁
綱成の子。玉縄城の系統を継ぎ、北条の一門・家臣団の中で活動します。
氏勝
綱成の孫。1590年、小田原征伐で玉縄城主として開城を選びます。
家康
関東入封後、北条の城と地域は徳川の支配へ組み替えられます。

綱成本人は1590年を見ませんが、玉縄城を預かる系統は北条滅亡まで続きます。河越で氏康を支えた家臣の物語は、一度の戦いで終わらず、北条の関東支配が終わるところまでつながっています。

ここだけ覚える

  • 北条綱成は玉縄城主として、北条氏の相模東部の前線を支えた武将。
  • 1545年から46年の河越合戦で、包囲された河越城を守った。
  • 氏康の外からの救援と、綱成の城内での防御がかみ合って北条方が勝利した。
  • 綱成の働きは、北条の強さが当主だけでなく、城を預かる家臣団に支えられたことを示す。
  • 子の氏繁、孫の氏勝へ玉縄城主の系統が続き、北条滅亡まで鎌倉方面の前線を支えた。

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10問クイズ

Q1. 綱成が城主を務めた相模の城は?

A. 玉縄城です。

Q2. 河越合戦で綱成が守った城は?

A. 河越城です。

Q3. 河越城を外から救援した北条氏の当主は?

A. 北条氏康です。

Q4. 河越合戦で河越城を包囲した連合に入る上杉氏は?

A. 扇谷上杉氏と山内上杉氏です。

Q5. 連合に加わった関東の政治的な中心は?

A. 古河公方です。

Q6. 綱成の河越城籠城が決着した年は?

A. 1546年です。

Q7. 綱成の子で玉縄城の系統を継いだ人物は?

A. 北条氏繁です。

Q8. 綱成の孫で、1590年に玉縄城主だった人物は?

A. 北条氏勝です。

Q9. 綱成を「勇猛な家臣」だけで終わらせない見方は?

A. 城と軍勢を預かり、北条の支城網を動かす前線指揮官として見ることです。

Q10. 北条滅亡後、玉縄城を含む関東を引き継ぐ側になった人物は?

A. 徳川家康です。

参考にした資料