人物ページ / 京都西南の交通路を守った三好三人衆

岩成友通(石成友通)

岩成友通は、三好長逸・三好宗渭と並ぶ三好三人衆の一人です。一次史料では「石成友通」と記されることが多く、1566年から勝龍寺城に入り、京都と西国を結ぶ街道・淀川水運の結節点を押さえました。1568年に城を追われても抗戦を続け、1573年に淀城で細川藤孝らと戦って討死するまで、三人衆のなかで最期を具体的に追える人物です。

生年不詳 — 1573年 三好三人衆 勝龍寺城・淀城 京都西南部

友通をつかむ四つの要点

  • 史料では「石成」が多い:岩成は広く定着した表記で、同時代文書では石成友通の形がよく見えます。
  • 勝龍寺城を担当:西国街道と淀川水運を押さえる京都西南の要地を守りました。
  • 敗退後も三度抗戦:本圀寺、野田・福島、淀と場所を変えながら反織田の戦いを続けます。
  • 1573年に淀で討死:細川藤孝らの攻撃を受け、7月27日に戦死したと長岡京市の年表が伝えます。

「岩成」と「石成」は同じ人物

現在は岩成友通の表記が広く使われますが、同時代の記録では石成友通と記される例が多くあります。読みは「いわなり」で、表記の違いだけで別人ではありません。三好三人衆も、史料では「三好長逸・三好宗渭・石成友通」と記されるため、史料や展示解説を探す際は二つの表記を合わせて見る必要があります。

友通の出自や若い時期は、長逸や宗渭以上に分からない点が残ります。一方、1560年代後半からは勝龍寺城・淀城という具体的な拠点と結びついて記録されるため、どの地域を任されたかは比較的はっきり追えます。

勝龍寺城は、京都の西南口を押さえる城

1566年7月、三好方が勝龍寺城を攻略すると、友通が城に入りました。現在の長岡京市にある勝龍寺城は、西国街道と久我縄手が交わり、淀川水系にも近い場所です。京都から摂津・西国へ向かう陸路と、淀川・桂川の水運を見張ることができ、京都を支配する政権にとって重要な入口でした。

友通が城主として置かれたことは、単に城を一つ預かったという意味ではありません。山城西部の国衆をまとめ、京都への兵糧・兵員の流入路を守り、摂津の三好拠点と京都を結ぶ地域を担当したと考えられます。三人衆の役割を地域で見ると、友通の輪郭が最も明確になります。

勝龍寺城京都盆地の西南部。西国街道と久我縄手を押さえ、淀川水運にも近い要地です。
入城1566年7月、三好勢が城を攻略した後に友通が入ります。
役割京都・摂津・西国を結ぶ交通路の防衛と、山城西部の地域支配を担いました。
失城1568年9月、信長・義昭方の攻撃を受けて城を退きます。

永禄の変後、久秀との内戦へ

1565年、友通は長逸・宗渭、松永久通らとともに二条御所を攻め、将軍足利義輝を死に追いやりました。事件後は三人衆と松永久秀が対立し、友通も山城・摂津・大和をまたぐ戦いに加わります。

三人衆は若い三好義継を支え、阿波の足利義栄を将軍に推しました。しかし義継は三人衆から離れて久秀と結び、1568年には足利義昭を奉じる織田信長が上洛します。同年9月、友通は勝龍寺城を追われ、城には義昭・信長方の細川藤孝が入ります。この時から藤孝は、友通の拠点を奪った直接の相手となりました。

城を失った後も、京都と大坂湾を行き来した

勝龍寺城を失った友通は阿波へ退きますが、1569年1月には長逸・宗渭らと本圀寺の足利義昭を襲いました。攻撃は失敗したものの、信長本隊の不在を狙って京都の政権を一挙に崩そうとした作戦でした。

1570年には長逸らと摂津へ戻り、野田・福島の陣城を拠点に抗戦します。石山本願寺の参戦も重なり、織田軍を一度退却させました。勝龍寺から本圀寺、野田・福島、淀へという移動は、友通が京都西南と大坂湾・淀川水系を結ぶ戦場に繰り返し現れたことを示します。

1569年・京都

本圀寺の足利義昭を急襲。短期決戦で京都の政局を覆そうとしますが失敗しました。

1570年・摂津

野田・福島に布陣。阿波から海を渡り、水運を使って畿内へ戻ります。

1573年・淀

淀城を拠点に抗戦。京都と大坂を結ぶ水運の要地で最後の戦いを迎えます。

1573年、淀城で細川藤孝と再戦する

1573年、足利義昭が信長に反旗を翻して京都を追放されると、畿内の反織田勢力は各地で孤立します。友通は淀城に立てこもり、細川藤孝らの攻撃を受けました。長岡京市の歴史年表では、7月27日に藤孝が旧勝龍寺城主の友通を淀で討ったとされます。

1568年に勝龍寺城を奪った藤孝と、1573年に淀で友通を破った藤孝は同じ人物です。友通の最期は、単独の落城ではなく、義昭の追放によって室町幕府を軸とする反織田の連携が崩れていく局面に位置します。三人衆のうち、拠点・対戦相手・戦死日までを一続きで追える点でも重要です。

友通の戦場を年表で追う

1565年
永禄の変

三人衆・松永久通らが足利義輝を襲撃。事件後は久秀と対立します。

1566年
勝龍寺城へ入る

三好勢が城を攻略し、友通が京都西南の要地を担当します。

1568年
織田・足利方に城を奪われる

信長の上洛に伴う攻撃で勝龍寺城を退き、阿波へ移ります。

1569年
本圀寺を襲撃

京都へ戻り、足利義昭を攻めますが撃退されます。

1570年
野田・福島で再起

摂津に陣城を築き、本願寺とともに織田軍へ圧力をかけます。

1573年
淀城で討死

細川藤孝らの攻撃を受け、7月27日に戦死します。

関係をつないで読む

5問クイズ

Q1. 一次史料に多い姓の表記は?

A. 石成です。岩成も同じ人物を指します。

Q2. 1566年に友通が入った城は?

A. 勝龍寺城です。

Q3. 勝龍寺城が重要だった理由は?

A. 京都と西国を結ぶ街道、淀川水運に近い交通の要地だったからです。

Q4. 1570年に再起した場所は?

A. 摂津の野田・福島です。

Q5. 友通の最期の地と対戦相手は?

A. 淀城で、細川藤孝らに攻められて討死しました。

参考にした資料

友通の前半生は不明点が多いため、長岡京市が示す勝龍寺城の位置・年表と、大学・自治体の三好政権研究から確認できる活動を中心に整理しました。