人物ページ / 元亀元年、近江南部防衛網の一人

中川重政なかがわしげまさ

中川重政とは?

中川重政は、元亀元年(1570)、浅井長政あざいながまさの離反を受けて織田信長おだのぶながが近江南部に築いた防衛網の一人として、安土(現在の滋賀県近江八幡市)に配置された家臣である。

元亀元年(1570)4月に浅井長政離反の知らせを受けた信長は、岐阜へ戻るにあたり、近江南部の5つの要地に家臣を配置した。その一人として、安土に中川重政が置かれた。
重政が置かれた「安土城」は、6年後の天正4年(1576)に信長が新たに築く、あの有名な安土城とは別の城である。

近江南部防衛網——森可成・稲葉一鉄・佐久間信盛・柴田勝家と並ぶ配置

元亀元年(1570)4月、越前攻略のため敦賀つるがまで出陣していた信長のもとに、浅井長政あざいながまさ離反の知らせが届いた。岐阜へ戻るには、本来なら東山道とうさんどうを通るのが通例だったが、このルートは江北を支配する浅井氏の容認が前提になる。長政が離反した以上、東山道を素直には使えなくなった。

知らせを受けて京都に入った信長は、そこから岐阜へ戻るにあたり、近江南部の5つの要地へ家臣を配置した。滋賀県教育委員会の資料は、この配置を次のように記している。

配置地家臣押さえた道
宇佐山うさやま(大津市)森可成もりよしなり北国街道ほっこくかいどう(湖西から京都へ)
守山(守山市)稲葉一鉄いなばいってつ東山道
永原(野洲市)佐久間信盛さくまのぶもり下街道しもかいどう
長光寺ちょうこうじ(近江八幡市)柴田勝家しばたかついえ東山道
安土(近江八幡市)中川重政下街道

宇佐山は、湖西を通って北国から京都へ入る道を押さえる位置にある。守山と長光寺は東山道を押さえ、永原と安土は、後の朝鮮人街道の前身にあたる下街道沿いに位置した。いずれも愛知川えちがわより南、岐阜・京都間のルート上の要地である。近江南部の確保は、信長が京都との連絡を保つ生命線だった、とガイドブックは位置づけている。

重政がその後どれくらいの期間、安土にとどまったのかは、この滋賀県教育委員会の資料からは分からない。

この「安土城」は別物——後の安土城との違い

滋賀県教育委員会の資料は、この配置を説明した箇所とは別に、次のように念を押している。「永原城(野洲市)、長光寺城(近江八幡市)、安土城(近江八幡市 後に信長が築く安土城とは異なる)を湖南の要所に築き、家臣を配置しました」。中川重政が置かれた「安土城」は、天正4年(1576)、信長が武田勝頼たけだ かつよりを長篠の合戦で破った翌年に築城が始まる、あの有名な安土城ではない。同じ地名の上に、時期の異なる二つの城が建ったことになる。

この元亀元年の「安土」は、近江八幡市が公開する合併協議会関連資料にも出てくる。同資料は、『信長公記しんちょうこうき』元亀元年(1570)5月12日の条に「安土城に中川八郎右衛門はちろうえもん楯籠り」とあることを引き、この記述からは、築城(1576年)より前から「安土」と呼ばれていたようにも読める、としている。そのうえで同資料は、『信長公記』で「安土」の呼び名が使われるのはこの条のほかはすべて天正4年の築城以降で、それより前は「常楽寺」と書き分けられていると指摘し、「安土」の呼び名は天正4年(1576)正月、築城を始めるにあたって名付けられたと考えられる、としている。

滋賀県教育委員会の資料は安土に置いた家臣を「中川重政」と書き、近江八幡市の資料が引く『信長公記』の条は「中川八郎右衛門」と書く。二つの名が同じ人物を指すかどうかは、この二つの資料からは決められない。

中川重政の疑問に答える

中川重政は、結局どんな人?

元亀元年(1570)、浅井長政の離反を受けた信長が近江南部の5つの要地に家臣を置いたとき、安土に配置された家臣である。

なぜ安土に配置された?

浅井長政の離反で東山道が使いにくくなった信長が、岐阜へ戻る前に近江南部を確保する必要があったためである。永原と安土は下街道沿いにあり、愛知川より南で岐阜・京都間を結ぶ要地だった。

この「安土城」は、今の安土城跡と同じ?

別の城である。重政が置かれたのは元亀元年の「安土城」で、今の安土城跡として知られる城は、6年後の天正4年(1576)に信長が新たに築いたものである。滋賀県教育委員会の資料は、この二つを明確に区別している。

中川清秀なかがわきよひでとは同じ家?

姓が同じことだけでは、同じ家かどうかは決められない。中川清秀は摂津の茨木城主で、このサイトでは別のページで扱っている。

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参考にした資料

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