人物ページ / 龍造寺一門から鍋島藩政の中核へ移り、多久二万一千石を守った武将

多久安順

龍造寺隆信の同母弟・長信の子として生まれ、当初は龍造寺家久と名乗った武将。九州平定、肥後国人一揆、朝鮮出兵、関ヶ原、大坂の陣、島原の乱に関わり、戦国から江戸初期を生き抜きました。鍋島直茂の娘・千鶴と結婚し、1608年ごろ龍造寺姓を遠慮して領地の名から多久安順へ改名。佐賀藩の家老格として多久二万一千石を治め、伯庵の宗家再興訴訟では龍造寺一門の立場から鍋島氏への継承を正当と説明しました。

1566 - 1641 後多久家初代 伯庵訴訟・島原の乱 多久二万一千石
安順は「龍造寺を裏切った一門」ではない。龍造寺の血統と家格を、鍋島の佐賀藩内で残す道を選んだ。 隆信、長信、直茂、勝茂、伯庵、李参平をつなぐと、戦国の一族が近世領主へ変わる過程が見えます。
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多久安順を理解する要点

多久安順は1566年、龍造寺隆信の同母弟・長信の子として生まれました。若いころは龍造寺家久と名乗り、父が治めた多久を受け継ぎます。1587年には鍋島直茂の娘・千鶴と結婚し、龍造寺一門であると同時に鍋島家の婿という立場になりました。

九州平定、肥後国人一揆、諫早方面の戦いを経て、文禄・慶長の役では多久の手勢を率いて渡海しました。朝鮮から移された人々のうち、陶工・李参平らを直茂から預かり、多久で作陶と陶土探索を行わせたと伝わります。のち李参平が有田へ移り、白磁生産の基礎を築いたため、安順は多久と有田焼の歴史をつなぐ人物にもなりました。

関ヶ原では主家に従って西軍側へ動きましたが、徳川政権下でも多久領を保ちます。1608年ごろ龍造寺姓から多久姓へ改め、佐賀藩の家老格として藩政を支えました。1635年、伯庵が龍造寺宗家の再興を求めると、安順は自分の方が隆信に近い血統だが鍋島藩政に異論はないと答え、訴えを退けます。家名の再興より、一門が佐賀藩内で存続する現実を選んだ判断でした。

  • 隆信の同母弟・長信の子で、初めは龍造寺家久と名乗った
  • 直茂の娘・千鶴と結婚し、龍造寺と鍋島を婚姻で結んだ
  • 朝鮮出兵から帰国後、李参平らを多久で受け入れたと伝わる
  • 龍造寺姓から多久姓へ改め、佐賀藩家老格の後多久家を開いた
  • 伯庵訴訟では鍋島氏への継承を支持し、島原の乱にも高齢で出陣した

関係人物と事件

龍造寺長信安順の父で隆信の同母弟。1570年ごろ多久へ入り、龍造寺系の後多久家の基礎を作りました。
龍造寺隆信安順の伯父。隆信が築いた領国と一門秩序が、安順の武将としての出発点です。
龍造寺政家安順の従兄。秀吉の九州平定では、政家・直茂とともに出陣しました。
鍋島直茂安順の主家を支えた重臣で、岳父。朝鮮出兵などで行動をともにし、佐賀藩成立を主導しました。
千鶴直茂の娘で安順の妻。1587年に結婚し、多久家と鍋島家の結びつきを強めました。
鍋島勝茂安順の義兄弟にあたる佐賀藩初代藩主。安順は家老格として藩政と軍役を支えました。
龍造寺伯庵高房の遺児とされ、宗家再興を訴えた人物。安順は伯庵の嫡流性を否定しました。
李参平朝鮮から日本へ移された陶工。多久で作陶と陶土探索を行い、のち有田焼の陶祖と呼ばれます。
多久茂辰安順の養嗣子で後多久家二代。1636年に多久邑主を譲られました。
鍋島直澄勝茂の五男でのち蓮池藩主。島原の乱では安順が後見役となりました。
関ヶ原の戦い安順が主家に従い西軍側へ出陣し、敗戦後に徳川政権への適応を迫られた戦役です。
大坂夏の陣1615年、参戦のため伊万里から出航しましたが、到着前に大坂城が落城しました。
島原の乱1637年、安順が直澄の後見として多久勢三百五十人を率いた江戸初期の大規模一揆です。

安順を五段階で見る

1. 龍造寺一門

隆信の甥・龍造寺家久として、多久の軍勢を率いる一門武将になりました。

2. 直茂の娘婿

千鶴との婚姻で鍋島家と結び、龍造寺から鍋島へ移る領国の接点になりました。

3. 海を渡った武将

朝鮮出兵に参加し、帰国後は渡来した技術者と多久の地域産業を結びました。

4. 佐賀藩の多久家

姓を多久へ改め、二万一千石を治める家老格として鍋島藩政を支えました。

5. 宗家再興を退ける

伯庵の血統主張より、幕府が認めた鍋島氏の支配と一門の現実的存続を選びました。

多久安順の生涯を年表で追う

龍造寺長信の子として生まれる

隆信の甥にあたり、龍造寺家久を名乗りました。

父・長信が多久へ入る

前多久氏の滅亡後、龍造寺一門が梶峰城と多久地域を治める後多久の時代が始まります。

秀吉の九州平定へ出陣

龍造寺政家、鍋島直茂らとともに多久勢を率い、豊臣政権へ服属しました。

直茂の娘・千鶴と結婚

龍造寺一門と鍋島家を婚姻で結び、のちの藩政参加につながる立場を得ます。

肥後国人一揆を鎮圧

豊臣政権の軍役に応じ、多久の軍勢を率いる実務的な武将として活動しました。

諫早の西郷氏と戦う

一族の龍造寺家晴を助け、肥前南西部の領国再編に関わりました。

八百騎を率いて朝鮮へ渡る

病気で出航が遅れましたが、四月に伊万里から出航し、五月に直茂勢へ合流しました。

一時帰国する

明との講和交渉にともない多久へ戻りましたが、和平が破れると再び渡海しました。

秀吉の死後に帰国

朝鮮在陣の諸将とともに撤退し、直茂らと肥前へ戻りました。

西軍側へ出陣

主家に従って西軍側となりましたが、戦後は徳川家康へ謝罪・交渉し、多久領を保ちました。

駿府城普請を監督

幕府が進める駿府城工事で、主家から監督役を任されました。

多久安順と改名

佐賀を治める鍋島家に対して龍造寺姓を遠慮し、領地の多久を名字としました。

伯庵訴訟のため江戸へ出る

龍造寺から鍋島への継承の正当性を説明し、伯庵の再興要求を退けました。

多久茂辰へ邑主を譲る

養嗣子へ後多久家を継がせ、家督を次世代へ移しました。

島原の乱へ出陣

鍋島直澄の後見役として三百五十人を率い、高齢になっても軍役を担いました。

死去し、慶誾寺に葬られる

死後、十一人の家臣が殉死したと伝わり、墓は佐賀市の慶誾寺に残ります。

「前多久」と「後多久」は別の家

多久には鎌倉時代以来の前多久氏がいましたが、16世紀の戦乱で滅亡しました。1570年ごろ、隆信の実弟・龍造寺長信が多久へ入り、梶峰城を拠点とします。

長信の子・家久、のちの安順へ続く家を、前多久氏と区別して「後多久氏」と呼びます。名字は同じでも、安順が前多久氏の直系をそのまま継いだという意味ではありません。

後多久家の基礎は龍造寺氏の多久支配です。そのため安順が多久姓へ改めても、血統と家臣団の出発点は龍造寺一門にありました。

龍造寺家久から多久安順へ

龍造寺家久

隆信の甥として戦国期を生き、九州平定・肥後・朝鮮で多久勢を率いた名前です。

多久長門守安順

鍋島氏が佐賀藩を治める時代に、領地を名字として名乗った近世領主の名前です。

変わらないもの

多久の領地、家臣団、隆信の弟から続く血統は、改姓後も後多久家へ引き継がれました。

改姓は龍造寺との血縁を否定する行為ではなく、新しい主従秩序の中で家を残す表示でもありました。安順の前半生を調べるときは「龍造寺家久」、後半生は「多久安順」の名で探す必要があります。

千鶴との婚姻――龍造寺と鍋島の間に立つ

1587年、家久は鍋島直茂の娘・千鶴と結婚しました。隆信の甥が直茂の娘婿になったことで、龍造寺宗家・多久家・鍋島家の結びつきが強まります。

この婚姻は、安順がのちに鍋島藩政を支持した理由の一つです。ただし「妻が鍋島家だから従った」だけではありません。安順自身も直茂と九州平定・朝鮮出兵・関ヶ原後の対応を経験し、軍役と政治の実務を共有しました。

安順は血統では龍造寺、婚姻と政治では鍋島、所領では多久という三つの基盤を持ちます。この複合的な立場が、伯庵訴訟での判断につながりました。

九州平定と肥後国人一揆――豊臣政権への適応

1587年、秀吉が九州へ進軍すると、家久は龍造寺政家・鍋島直茂とともに多久の手勢を率いて従いました。沖田畷後に弱体化した龍造寺領国が存続するには、豊臣政権への軍役が必要でした。

同年に肥後国人一揆が起こると、家久は鎮圧へ動きます。その後は龍造寺家晴を助けて諫早の西郷氏と戦い、秀吉による肥前の領地再編にも関わりました。

安順の20代は、独立した戦国大名として版図を広げる時代ではありません。中央政権の命令へ応じ、与えられた領地と家臣団を守る近世大名家臣への移行期でした。

朝鮮出兵――八百騎を率いた長い国外軍役

1592年、直茂は佐賀勢を率いて朝鮮へ渡りました。家久は病気で出航が遅れたものの、四月に伊万里から八百騎を率いて出航し、翌月に直茂へ合流したと多久市資料は伝えます。

1596年の講和交渉で一時帰国しましたが、交渉が破れると再度渡海しました。1598年、秀吉の死による撤兵まで、長期の軍役は多久の家臣・百姓にも大きな負担を与えたと考えられます。

この戦争では多くの朝鮮人が捕虜・被虜人として日本へ移されました。学者、技術者、陶工らが佐賀領へ連れて来られたことは、陶磁器技術の移動と同時に、侵略と強制移住の歴史として見る必要があります。

李参平と多久――有田焼へつながる技術の移動

多久市の伝承では、直茂が朝鮮から連れて帰った陶工・李参平らを家久に預けました。李参平は多久で十数年、別資料では約18年を過ごし、作陶しながら磁器に適した陶石を探したとされます。

のち有田の泉山で良質な磁石を見つけ、白磁生産へ進んだことから、李参平は「有田焼の陶祖」と呼ばれます。安順は自ら焼き物を作った人物ではありませんが、人材を保護し、試作と探索を許す領主として地域産業の条件を作りました。

ただし有田焼の成立は一人だけの発明ではなく、複数の朝鮮人陶工、窯、原料、流通、領主政策が重なった結果です。安順と李参平の関係は、その大きな歴史の一つの入口として扱うのが適切です。

関ヶ原――西軍側から徳川政権へ残る

1600年、安順は主家に従って西軍側へ出陣しました。佐賀勢は高房・勝茂を中心に西軍へ加わり、敗戦後は領地没収の危機に直面します。

直茂・勝茂らは柳川の立花宗茂を攻め、徳川家康へ謝罪と働きかけを行いました。安順もその領国再建の中で許され、多久領を維持します。

1608年には幕府の駿府城普請で監督役を任されました。西軍参加から八年後、徳川政権の大規模工事を管理する立場になったことは、安順が新体制へ適応した証拠です。

多久二万一千石――大名ではなくても大きい領主

領地

多久を中心に二万一千石を与えられ、独自の家臣団と地域行政を持ちました。

家格

佐賀藩の親類同格・家老格として、鍋島宗家を支える上位の家に位置づけられました。

藩政

軍役だけでなく、普請、幕府対応、一門調整など佐賀藩全体の仕事を担いました。

継承

養嗣子・茂辰以後も後多久家が続き、幕末まで多久邑を治めました。

二万一千石は独立大名になりうる規模ですが、多久家は佐賀藩から分かれた藩ではありません。鍋島宗家の家臣として大きな領地を治める「家中の領主」であり、佐賀藩の重層的な支配を示す存在です。

伯庵訴訟――なぜ龍造寺一門が再興を否定したのか

1635年、高房の遺児とされる伯庵が、佐賀藩領は龍造寺氏のものだとして幕府へ訴えました。安順はその対応のため江戸へ出て、龍造寺から鍋島への政権移譲は正当だと説明しました。

安順は隆信の同母弟・長信の嫡男です。血統の近さだけで龍造寺宗家を論じるなら、庶子とされた伯庵より自分の方が相応しいと主張できました。しかし安順は、自分が佐賀藩主になることも求めませんでした。

多久家は鍋島藩政の下で二万一千石と高い家格を保ち、すでに次世代へ続く仕組みを持っていました。宗家の名を取り戻すため領国全体を不安定にするより、現在の秩序の中で龍造寺の血統と多久領を守る方を選んだのです。

伯庵と安順――龍造寺家を残す二つの考え方

伯庵の道

高房の遺児として宗家を再興し、鍋島氏へ移った領主権を幕府の裁定で取り戻す。

安順の道

鍋島氏を藩主と認め、龍造寺一門は多久・諫早・武雄などの有力家として領地を残す。

幕府の判断

二十年以上続いた鍋島藩政と一門有力者の支持を重く見て、伯庵の再興を認めない。

どちらも「龍造寺家を残したい」という発想から出ていますが、家の意味が違います。伯庵にとって家は宗家と藩主権、安順にとって家は血統・家臣・所領を次代へ渡す現実の組織でした。

大坂の陣から島原の乱まで――最後まで軍役を担う

1615年、安順は大坂夏の陣へ参戦するため伊万里から出航しました。しかし大坂城は到着前に落城し、実戦には間に合いませんでした。戦国最後の大戦は、多久から遠く離れた場所で終わります。

1636年に養嗣子・茂辰へ多久邑主を譲りますが、翌年に島原の乱が起こると再び出陣しました。勝茂の五男・鍋島直澄の後見役となり、三百五十人の多久勢を率いたとされます。

安順は九州平定から島原の乱まで約半世紀、豊臣・徳川両政権の軍役を経験しました。戦国武将として始まり、幕藩体制の家老として終わった生涯です。

1641年の死と十一人の殉死

安順は1641年に死去し、佐賀市本庄町の慶誾寺に葬られました。多久市の資料では、死に際して十一人の家臣が殉死したと伝えます。

殉死は主君の死に従って家臣が命を絶つ行為です。忠義の象徴として語られてきましたが、家族と家臣団に大きな犠牲を強いる慣行でもあり、のち江戸幕府は禁じていきます。

十一人という数は、安順と家臣の結びつきの強さだけでなく、戦国的な主従観念が江戸初期にも残っていたことを示します。

後多久家が幕末まで残したもの

多久領

二代茂辰以後も後多久家が邑主となり、幕末まで地域を治めました。

佐賀藩の親類家

龍造寺の血統と鍋島との婚姻を背景に、親類同格の上位家として藩を支えました。

陶磁器への記憶

李参平が多久で過ごした伝承が、有田焼以前の技術移動を現在へ伝えます。

教育と文化

後代の多久家は東原庠舎や多久聖廟を整え、多久を文教の地域へ育てました。

史跡

慶誾寺の墓、多久神社、梶峰城跡、多久家屋敷門が一族の歴史を伝えます。

安順をたどる場所

梶峰城跡父・長信から安順へ続く後多久家の拠点。1615年の一国一城令まで使われました。
多久安順が二万一千石を治め、李参平らが作陶と陶土探索を行った地域です。
李参平顕彰之碑多久での滞在と有田焼へつながる歩みを顕彰する碑です。
慶誾寺安順と後多久家六代までの墓があり、父・長信や隆信の母・慶誾尼も祀られます。
多久神社龍造寺家兼・長信・安順らを祀る神社。安順は浄祐霊神として祀られています。
多久家屋敷門佐賀城下に置かれた多久家屋敷の門で、上級家臣としての規模を伝えます。

安順を読むときの四つの注意

同名の家久に注意

龍造寺家久は多久安順の旧名で、沖田畷の島津家久とはまったく別人です。

多久姓は血統交代ではない

前多久氏の復活ではなく、龍造寺長信の系統が領地名を姓にした後多久氏です。

伯庵への反論を善悪で見ない

安順は鍋島への忠誠だけでなく、多久領と龍造寺系家臣を守る立場から判断しました。

陶祖伝承を広く見る

李参平一人の発明物語ではなく、多くの朝鮮人陶工と領主政策を含む産業形成です。

安順から戦国と江戸を読むと

名字は政治を表す

龍造寺家久から多久安順への改名に、主君・領地・時代の変化が刻まれています。

婚姻が政権移行を支える

龍造寺の甥と直茂の娘が結ばれ、二つの家の交代を内側からつなぎました。

家の存続には複数の道がある

大名宗家の再興を求めず、藩内の大領主として血統・家臣・所領を残す選択もありました。

戦争が技術を移動させる

朝鮮侵略による強制的な人の移動が、多久・有田の陶磁器史へつながりました。

ここだけ覚える

  • 多久安順は隆信の甥で、初め龍造寺家久と名乗った後多久家初代。
  • 直茂の娘・千鶴と結婚し、龍造寺一門と鍋島家を婚姻でつないだ。
  • 朝鮮出兵後、李参平らを多久で受け入れ、有田焼前史に関わった。
  • 佐賀藩家老格として多久二万一千石を治め、幕末まで続く家を作った。
  • 伯庵の宗家再興を否定し、鍋島藩内で龍造寺の血統を残す道を選んだ。

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10問クイズ

Q1. 多久安順の最初の名前は?

A. 龍造寺家久です。

Q2. 安順の父は?

A. 龍造寺長信です。

Q3. 安順と隆信の関係は?

A. 安順は隆信の甥です。

Q4. 安順が結婚した千鶴の父は?

A. 鍋島直茂です。

Q5. 朝鮮出兵で安順が率いたとされる兵は?

A. 八百騎です。

Q6. 安順が多久で受け入れた陶工は?

A. 李参平です。

Q7. 安順が治めた多久領は約何石?

A. 二万一千石です。

Q8. 安順が嫡流性を否定した人物は?

A. 龍造寺伯庵です。

Q9. 島原の乱で安順が後見した人物は?

A. 鍋島直澄です。

Q10. 安順の墓がある寺は?

A. 佐賀市の慶誾寺です。

参考資料

生涯・軍役・改名・伯庵訴訟・島原の乱は多久市議会の前後編、李参平と多久は多久市、家格・領地・墓所は佐賀市の地域史、佐賀城下の屋敷は佐賀市資料を中心に整理しました。朝鮮出兵と陶磁器技術の移動は、地域の顕彰だけでなく侵略・連行の歴史を含むため、表現を分けています。