山名氏を率いた有力守護
宗全は、山名持豊として山名一族を率い、室町幕府の中で大きな影響力を持った守護大名です。京都の幕府政治では、将軍だけでなく、有力守護の軍事力・家格・人脈が大きな意味を持ちました。
宗全の存在は、室町幕府が将軍と守護の協力で成り立つ一方、その均衡が崩れると大きな内乱へ転じうる政権だったことを示しています。
西軍の中心として
応仁の乱では、宗全は西軍の中心人物となります。畠山義就や斯波氏の家督問題などが西軍側の動きと結び付き、京都の争いは各地の守護・国人を巻き込む大規模な内乱になります。
国立歴史民俗博物館には、乱が始まったころに宗全が高山寺へ出した制札も伝わります。戦場の主将というだけでなく、寺院や地域への命令を通じて勢力を動かした人物として見ることができます。
「西軍の大将」になるまで
山名氏は明徳の乱後に勢力を縮小していましたが、宗全は将軍家に仕え、複数国の守護を担う有力者として家の力を回復させました。出家後の法名が宗全です。後世に「赤入道」と呼ばれる豪胆な人物像が広まりましたが、まず見るべきなのは、幕府内で国々と親族関係を束ねた守護大名としての立場です。
宗全の死後まで見ると、応仁の乱が分かる
宗全は1467年に始まった戦いで西軍の中心となりますが、1473年に死去します。同じ年に細川勝元も没した後、戦いは1477年まで続きました。両大将の死で終わらなかったことは、戦争が個人同士の決闘ではなかった証拠です。
山名氏は乱後も但馬などで勢力を保ちますが、各地の守護代や国衆の自立が進み、守護が広域をまとめる仕組みは変化していきます。宗全は「戦国時代を始めた一人」と断定するより、室町幕府の有力守護が京都の争いを全国へ広げてしまった局面を代表する人物として捉えると理解しやすくなります。