城・場所ページ / 加藤嘉明が築き始めた伊予の城と城下

松山城

松山城は、伊予松山の城山に築かれた城です。1602年、賤ヶ岳の七本槍の一人・加藤嘉明が築城を始めました。山頂の本丸、山麓の二之丸・三之丸を組み合わせ、城下町と港・平野を見渡す大規模な城です。嘉明は関ヶ原後に伊予20万石を治め、戦国の水軍武将から領国を経営する大名へ変わりました。松山城は、その変化を形にした拠点です。

伊予国1602年に築城開始加藤嘉明山城と城下町
城山だけを見る城ではない。山の防御、麓の政務、城下の物流を一体で扱う、伊予の政治拠点でした。
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松山城を理解する要点

松山城は城山の頂に本丸を置き、南西の麓に二之丸・三之丸を置く平山城です。嘉明が築城を始めたころ、伊予は関ヶ原後の領地再編のなかにありました。城を新しく築くことは、守りを固めるだけでなく、新しい支配者が家臣・町人・農村をまとめる政治の宣言でもありました。

山の斜面には石垣をめぐらせ、登り石垣などを設けて防御を固めます。麓には行政と居住の場が広がり、城下町は商いと交通の中心になります。嘉明は1627年に会津へ転封され、松山城は未完成のまま後の城主へ引き継がれました。だから現在の松山城を「嘉明が一人で完成させた城」とせず、加藤氏から松平氏までの長い築城・整備の結果として見る必要があります。

  • 加藤嘉明が1602年に築城を始めた
  • 本丸・二之丸・三之丸を山と麓に分けた大規模な城
  • 伊予20万石を治める領国支配の中心だった
  • 石垣・登り石垣・屈曲した道が防御を支えた
  • 嘉明の会津転封後、後代の城主が築城を引き継いだ

関係人物と出来事

加藤嘉明松山城を築き始めた初代城主。水軍の将から伊予の大名へ進みました。
徳川家康関ヶ原後の領地再編で嘉明を加増し、伊予の大名として位置づけました。
松平定行加藤氏の後に入封し、城の整備を引き継いだ松山藩主です。
関ヶ原の戦い嘉明の加増と松山城築城へつながる全国的な転換点です。

山・麓・城下を一体で使う

山頂の本丸

城山の高所を使い、遠くを見渡して最後の防御を担います。

二之丸・三之丸

山麓に政務・居住・物資のための空間を広げました。

登り石垣

斜面を上下に区切り、敵が山を登る動きを防ぐ仕組みです。

城下町

武家地・町人地・道路を配置し、領国の人と物を集めました。

城を見るとき、天守だけに目を向けると城の役割が小さくなります。松山城は山の要害を利用しつつ、麓の政務空間と城下町を結びました。大名にとって城は、戦いのときに籠もる場所であると同時に、年貢・裁判・家臣の配置を扱う行政の中心でした。

松山城の流れ

関ヶ原後、嘉明が伊予で加増

伊予松前を基盤としていた嘉明は、より大きな領国を治める大名となります。

築城開始

城山で松山城の普請を始め、城下の整備も進めます。

嘉明が会津へ転封

築城は途上で、伊予の領主は交代します。

松平氏の時代

松平氏が入り、城郭と城下は近世の松山の中心として整えられます。

ここは単純化しない

  • 現在の天守を嘉明の時代の建物としない。城は後代にも整備・再建されています。
  • 松山城を石垣の名所だけで見ない。城下と領国を管理する仕組みでした。
  • 嘉明の築城を個人の手柄だけにせず、家臣・職人・領民の労働と負担を含めて見る。

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参考資料