場所ページ / 秀吉が初めて大名として根を張った、琵琶湖岸の城

長浜城

長浜城は、1573年に浅井氏が滅んだ後、羽柴秀吉が北近江を与えられて築いた城です。秀吉は小谷城を受け取った後、琵琶湖岸の今浜へ城を築き、地名を長浜へ改めました。ここは秀吉が初めて城持ち大名として、領地・家臣団・城下町を持ち、中国攻めへ向かう足場になった場所です。

1573年〜秀吉の最初の大名拠点琵琶湖岸今浜 → 長浜
長浜城は、天下人になった秀吉の城ではなく、天下人になる前の土台。城を持つことは、兵を率いるだけでなく、領地・家臣・物流をまとめることでもあります。
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長浜城を見る要点

1573年、浅井長政が小谷城で自害して浅井氏が滅びると、秀吉は戦功を認められ、北近江の大部分と小谷城を与えられました。これが秀吉が初めて城持ち大名になった場面です。

秀吉は山中の小谷城ではなく、琵琶湖岸の今浜に新しい城を築き、地名を長浜へ改めて移ります。長浜城を拠点に、秀吉は北陸攻めや中国攻めへ出陣しました。

なぜ小谷城ではなく、長浜城なのか

小谷城は浅井氏の本拠だった山城です。一方、長浜城は琵琶湖岸に築かれた水城でした。秀吉は今浜が交通の要地だと見て、城と城下町をつくります。

戦国大名にとって城は、戦うための要塞だけではありません。人や物を集め、家臣団を置き、地域を治める政治と経済の拠点です。長浜城を選んだことは、秀吉が「戦で働く家臣」から「自分の領地を経営する大名」へ変わったことを表します。

長浜城をめぐる流れ

1573年9月
浅井長政が小谷城で自害し、浅井氏が滅亡。秀吉は北近江の大部分と小谷城を与えられます。
1574年ごろ
秀吉は今浜に城を築き、地名を長浜へ改めて、家族とともに小谷城から移ります。
1570年代後半〜
秀吉は長浜を居城に、信長の先兵として北陸攻めや中国攻めへ出陣します。
1582年
本能寺の変の後、清洲会議で長浜城は柴田勝家の甥・勝豊の城になりますが、秀吉は同年中にこれを取り戻します。
1583年
賤ヶ岳の戦いで、長浜城は秀吉が勝家と争うときの拠点の一つになります。

秀吉の出世と、長浜城の役割

長浜城で得たもの何につながるか
領地浅井氏の旧領を治め、年貢や人の動きを自分の軍団の基盤にできます。
家臣団秀長、三成らにつながる人々を含め、秀吉の家臣団が活動する土台になります。
琵琶湖の交通湖上交通を使える湖岸の城は、人や物の移動を考える上で便利な場所でした。
次の大仕事北陸・中国地方という、より大きな戦線を任される入口になります。

城下町まで作るということ

長浜城の話で面白いのは、秀吉が城だけを建てたのではなく、今浜という地名を長浜へ改め、城下町を育てる拠点にしたことです。

後に大坂城を拠点に天下統一を進める秀吉ですが、その前に長浜で「城と町を一緒に作る」経験をしています。長浜城は小さな前段ではなく、秀吉が大名として何をする人物になるかを先に見せている場所です。

ここだけ覚える

  • 長浜城は、秀吉が初めて城持ち大名として築いた拠点。
  • 1573年、浅井氏滅亡後に北近江を与えられたことが出発点。
  • 秀吉は今浜に城を築き、地名を長浜へ改めた。
  • 長浜城は、秀吉が北陸・中国方面へ出陣する足場になった。
  • 長浜城を見ると、秀吉を「戦の達人」だけでなく、領地と町を経営する大名として見られる。

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5問クイズ

Q1. 秀吉が初めて城持ち大名になったきっかけは?

A. 浅井氏滅亡後、北近江の領地と小谷城を与えられたことです。

Q2. 長浜城が築かれる前の地名は?

A. 今浜です。

Q3. 長浜城が立つのは何の湖の岸?

A. 琵琶湖です。

Q4. 長浜城主時代の秀吉が任された大きな戦線の一つは?

A. 中国地方の攻略です。

Q5. 長浜城を一言でいうと?

A. 秀吉が大名として領地・家臣・城下を持つ土台になった城です。

参考にした資料