城・場所ページ / 淡路の海を見下ろし、脇坂安治が治めた城

洲本城

洲本城は淡路島東岸の三熊山に築かれた城です。大坂湾、紀淡海峡、瀬戸内海へつながる海上交通を見渡せる位置にあり、島を支配するうえで重要な拠点でした。賤ヶ岳の七本槍の一人・脇坂安治は、約24年にわたり洲本城主を務め、石垣を多用した近世的な城へ改修します。洲本城は、関ヶ原の転身で知られる安治を、海と城下を治めた大名として見直すための場所です。

淡路国脇坂安治海上交通の要地総石垣の城
淡路の城は、島の城では終わらない。大坂・紀伊・四国を結ぶ海の道を押さえる、瀬戸内海の拠点でした。
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洲本城を理解する要点

洲本城は三熊山の地形を利用し、山上の城と麓の城下を結ぶ城です。淡路島は本州と四国の間にあり、海上交通の結節点でした。島を治める大名にとって、港や船を管理することは、陸上の村を支配することと同じほど重要でした。

安治は洲本城主として、古い城を石垣の城へ大改修したとされます。石垣は防御を高めるだけでなく、城主が安定して城下を統治する近世的な城の象徴でもあります。安治は1609年に伊予大洲へ移りますが、洲本で築いた城と家臣団の基盤は、その後の領主としての力につながりました。

  • 淡路島東岸、海上交通を見渡す三熊山の城
  • 脇坂安治が約24年にわたり城主を務めた
  • 石垣を多用する近世城郭へ改修された
  • 大坂・紀伊・四国を結ぶ海の道を押さえた
  • 安治の大洲転封後も、淡路の政治と記憶の中心に残った

関係人物と出来事

脇坂安治洲本城を最も長く治め、総石垣の城へ改修した大名です。
豊臣秀吉四国平定後、淡路を豊臣政権の海上拠点として編成しました。
大洲城安治が洲本から移った後に治めた伊予の城です。
関ヶ原の戦い安治が東軍へ転じ、その後の大洲転封につながった決戦です。

海を押さえる城――淡路の位置

洲本城の価値は、山の上の防御だけでは説明できません。淡路島の東側は大坂湾に開き、紀淡海峡を抜ければ紀伊や太平洋へ、瀬戸内海を西へ進めば播磨・備前・四国へつながります。戦国末の船は、兵・米・武器・情報を運ぶ重要な手段でした。

安治は水軍を率いた大名でもありました。洲本城と港を持つことは、海上輸送を管理し、秀吉の戦争に対応する力を持つことでした。城跡を歩くときは、石垣だけでなく、城が見下ろす海の道を想像すると役割が見えます。

総石垣の城へ――安治の長い洲本統治

安治は32歳ごろから56歳ごろまで洲本城主を務めました。歴代の洲本城主のなかでも長い在任で、この時期に城は大きく姿を変えます。石垣を重ね、曲輪を整えることで、戦国の山城から近世の領主の城へ近づきました。

築城は城主だけの仕事ではありません。石工、木こり、運搬に関わる人々、城下の商人、周辺の村が動員されます。立派な石垣は支配の安定を示す一方で、領民への負担の上に成り立つ公共事業でもありました。

ここは単純化しない

  • 洲本城を山上の遺構だけで見ない。港と海上交通を含む拠点でした。
  • 石垣の改修を安治一人の仕事にしない。多くの労働と城下の変化を伴いました。
  • 安治の洲本統治を関ヶ原の転身より小さく扱わない。生涯の大半を占める重要な時期です。

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参考資料