場所ページ / 京と大坂の間で、戦国の城から譜代大名の城へ姿を変えた北摂の拠点

高槻城

高槻城は、京都と大坂を結ぶ要地・高槻に置かれた城です。南北朝期の入江氏の居館を起点に、1569年ごろ和田惟政が城として整え、1573年には高山右近が町屋を城内に取り込んで防御を強めました。1578年の荒木村重離反では織田信長と村重の争いの前線になり、右近が信長方へ戻ることで北摂の情勢が変わります。豊臣期には秀吉が直轄地として城主を置き、江戸期には幕府の改修を経て永井家が13代にわたり高槻藩を治めました。発掘では、戦国から江戸まで三段階に変化した堀、石垣、軟弱地盤を支える梯子胴木が見つかっています。高槻城は、城主が替わるたびに城そのものも造り替えられた場所です。

摂津・高槻 高山右近 京・大坂の要地 戦国から江戸へ
高槻城は三層で読む 戦国の城と城下、高山右近の高槻、江戸の高槻藩。発掘された堀をたどると、同じ場所が何度も改修されたことが見えてきます。
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高槻城を見る要点

高槻城は、京と大坂の間を押さえるための平地の城です。和田惟政が基礎を固め、高山右近が城下町を取り込んで強化しました。

右近の後は豊臣政権の城となり、大坂夏の陣後には江戸幕府が改修します。1649年に永井直清が入り、以後は永井家13代の高槻藩の居城になりました。

  • 1569年ごろ、和田惟政が城としての基礎を固める
  • 1573年、高山右近が城主となり、町屋を城内へ取り込む
  • 1578年、荒木村重離反をめぐる北摂の前線となる
  • 1617年の幕府改修後、1649年から永井家の高槻藩へ

高槻城を四つの時代でつかむ

入江氏の居館

二の丸跡では、南北朝期にさかのぼる直線的な堀が見つかっています。

和田・高山の戦国城

室町幕府・織田政権のもとで、城と城下の防御が大きく整えられました。

豊臣の要地

右近の後は秀吉が京阪間の拠点として直轄化し、城主を入れ替えます。

高槻藩の居城

江戸期には譜代大名の永井家が城と城下を治め、幕末まで続きました。

城主と城を人で見る

入江氏南北朝期に高槻で居館を構えたとされる一族。二の丸跡ではこの時代にさかのぼる堀が検出されています。
和田惟政足利義昭の家臣。1569年ごろ高槻城を整え、芥川山城に代わる平地の拠点として基礎を固めました。
高山右近1573年からの城主。町屋を城内へ取り込み、キリスト教を保護した高槻の城主として知られます。
荒木村重右近の上位に立った摂津の有力武将。1578年の離反で高槻城をめぐる選択を右近に迫ります。
織田信長村重離反後に高槻城を攻めた上位権力。右近が信長方へ戻ると、北摂の城のつながりは村重から切れます。
羽柴秀勝右近が明石へ移った後に高槻城主となった秀吉の養子。高槻が豊臣政権の直轄拠点へ組み替えられたことを示します。
永井直清1649年に3万6千石で入城した高槻藩主。以後、永井家13代が幕末まで高槻城を居城としました。

ざっくり年表

南北朝期
入江氏の居館が始まりとされます。二の丸跡では直線的な堀が確認されています。
1569ごろ
和田惟政が高槻城を整え、平地の城としての基礎を固めます。
1571
白井河原合戦で惟政が敗死。高槻では和田惟長と高山父子の力関係が変わります。
1573
高山右近が城主となり、町屋を城内に取り込む整備を進めます。
1578
荒木村重が信長に反旗を翻す。信長軍が高槻城を攻め、右近は信長方へ戻ります。
1585
右近が明石へ移り、豊臣秀吉の養子・羽柴秀勝が高槻城主になります。
1615
大坂夏の陣後、内藤信正が高槻城主となります。
1617
江戸幕府による直営改修が行われ、近世城郭へ大きく整えられます。
1649
永井直清が入城。永井家13代の高槻藩が幕末まで続きます。
1874以後
廃藩置県後、鉄道建設などで石垣石が資材に使われ、城の姿は大きく変わります。

なぜ高槻に平地の城が必要だったのか

高槻は京都と大坂の間にあり、淀川水系と陸路が交わる地域です。戦国後半の畿内では、京都を支配するだけでも、大坂・堺・西国へ通じる道を確保しなければなりませんでした。

和田惟政は山上の芥川山城だけでなく、高槻に平地の拠点を整えました。平地の城は、兵を置く場所であると同時に、町、人、物資、道をまとめる政治の中心にもなります。右近が町屋を城内に取り込んだのも、この城が城下を含めて守る必要があったからです。

和田惟政から高山右近へ――城主交代が意味すること

和田惟政は足利義昭に仕え、信長の上洛後に摂津を任された人物です。1569年ごろの高槻城には、和田氏が最新の城へ改修していた痕跡があり、記録上は早い時期の天主にも触れられます。

1571年に惟政が戦死すると、子の惟長と高山友照・右近父子の対立が表面化します。1573年、右近が城主となったことは、単に城の名前が変わった話ではありません。高槻の軍事力と城下の支配を担う集団が和田氏から高山氏へ入れ替わったことを意味します。

右近の高槻城――城下とキリスト教を重ねる

高山右近は、1573年に高槻城主となります。高槻市の説明では、右近は町屋を城内に取り込んで堅固な城郭を築きました。城と町の間に線を引くのではなく、町を守りの中へ取り込む発想です。

右近はキリスト教を保護した城主としても知られ、1574年ごろには城内に教会堂が建てられたと伝わります。これは城が軍事施設だけでなく、城主の信仰、人びとの暮らし、来訪する宣教師が重なる場だったことを示します。

ただし、高槻城をキリシタンの城とだけ呼ぶと不十分です。右近は北摂の城主として軍勢と家臣を統率し、京と大坂の間の交通を押さえる役も担っていました。

1578年――荒木村重の離反で、城は最前線になる

右近は摂津を支配する荒木村重に従っていました。1578年に村重が信長へ背くと、高槻城は村重方にとどまるか、信長方へ戻るかという選択を迫られます。

高槻市は、信長がこの年に高槻城を攻撃したと伝えます。右近が信長方へ戻り、茨木城の中川清秀も村重から離れると、村重は有岡城を守りながら北摂の重要な城を失いました。

高槻城は、有岡城の攻防を外側から決めた城でもあります。一つの城の籠城戦に見える村重の離反は、高槻・茨木・有岡などをつなぐ城のネットワークが切れる過程でした。

右近の後――豊臣の直轄拠点として組み替わる

1585年、右近が播磨明石へ移ると、高槻城には秀吉の養子・羽柴秀勝が入ります。高槻は、特定の地域武将に任せ続ける城ではなく、豊臣政権が京と大坂の間を管理する拠点になります。

城主の交代は、城の役目が変わることでもあります。戦国の高槻城は和田氏・高山氏の地域基盤と結びついていましたが、豊臣期にはより大きな政権の城として人事が行われます。高槻城を見ると、秀吉が大名の城を配置し直して畿内をまとめる様子が分かります。

江戸の高槻城――幕府改修と永井家13代

大坂夏の陣の後、1617年に江戸幕府の直営改修が行われました。近くに大坂城があり、京都との間を押さえる高槻は、豊臣滅亡後にも幕府にとって重要な城でした。

1649年、永井直清が3万6千石で入城します。以後、永井家は13代にわたり幕末まで高槻藩主を務めました。江戸時代の高槻城には三層の天守と櫓があり、淀川の向こうから見ても水中に浮かぶように美しく見えた、と17世紀末に来日したケンペルは記しています。

ここでの高槻城は、戦国の前線城ではなく、京都と大坂の間で幕府の秩序を支える譜代大名の城です。戦国から江戸へ、同じ立地が別の政治的役割を担い続けました。

発掘で分かる――堀は三度つくり替えられた

最初の堀

二の丸跡では、幅約7メートル・深さ約2.5メートルの直線的な戦国期の堀が見つかりました。

屈曲する堀

和田・高山の時代から江戸初めにかけ、幅約16メートル・深さ約4メートルの屈曲する堀が造られました。横矢、石垣、堀障子などの防御の工夫が確認されています。

江戸の内堀

江戸初めには二の丸御殿を築き、北側に幅18メートル以上・深さ4メートル以上の内堀を掘りました。

梯子胴木

軟弱な地盤でも石垣を築けるよう、基礎に木材を格子状に組む梯子胴木が使われました。

発掘の成果は、城が一度完成して終わったのではなく、支配者と戦い方が変わるたびに堀・石垣・御殿を作り直したことを示します。城跡を歩くときは「何が残るか」だけでなく、「何度埋めて、掘り直したか」に注目すると高槻城らしさが見えます。

現在の高槻城跡を見る

高槻城跡は大阪府の史跡で、城内町・野見町・大手町などに広がります。明治以後に石垣や堀の多くは失われましたが、発掘で見つかった石垣石や堀の構造をもとに、高槻城公園では二の丸の堀と石垣が再現されています。

現在の景観だけでは、戦国から江戸へ続く城の大きさはつかみにくいかもしれません。だからこそ、城跡公園、二の丸の発掘、城下の地名を合わせて見ると、右近や永井家がいた城の範囲が想像しやすくなります。

高槻城を読むときの注意

  • 「高山右近の城」だけで終わらせず、和田氏以前・豊臣期・江戸の永井家まで追う。
  • 現在の公園の景観と、戦国・江戸の城の規模を同じものと考えない。発掘成果を合わせて見る。
  • 城主交代は、人物の交代だけでなく、城下・堀・御殿・支配の仕組みの変更でもある。
  • 右近とキリスト教の話は重要だが、城の軍事・交通・統治の役目も同時に押さえる。

高槻城から戦国を読むと

高槻城は、「城は誰のものか」が何度も変わる場所です。和田氏が足利義昭と信長の時代に整え、高山右近が城下を取り込み、豊臣政権が城主を入れ替え、江戸幕府が近世城郭へ改修します。城は変わらない器ではなく、政権の都合に応じて改造される政治装置でした。

また、城を一つだけ見ていては1578年が分かりません。高槻・茨木・有岡を結ぶ城主たちの選択が、村重の反乱と信長の鎮圧を左右します。高槻城は、人物関係が地図の上でどう働いたかを確かめる入口になります。

ここだけ覚える

  • 高槻城は京と大坂の間を押さえる北摂の要地にあった城。
  • 和田惟政が基礎を固め、1573年に高山右近が城主となって城下を強化した。
  • 1578年の村重離反では、右近の帰順が北摂の城のつながりを変えた。
  • 大坂夏の陣後に幕府が改修し、1649年から永井家13代の高槻藩の居城となった。
  • 発掘された堀・石垣・梯子胴木は、城が何度も作り替えられたことを示す。

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10問クイズ

Q1. 高槻城がある、京と大坂の間の地域は?

A. 摂津国の高槻です。

Q2. 1569年ごろ高槻城の基礎を固めた人物は?

A. 和田惟政です。

Q3. 1573年に高槻城主となったキリシタン大名は?

A. 高山右近です。

Q4. 右近が取り込んで城を強化したものは?

A. 町屋です。

Q5. 1578年に信長へ反旗を翻した摂津の有力武将は?

A. 荒木村重です。

Q6. 右近の後に高槻城主となった秀吉の養子は?

A. 羽柴秀勝です。

Q7. 江戸幕府の高槻城直営改修が行われた年は?

A. 1617年です。

Q8. 1649年から幕末まで高槻藩主を13代続けた家は?

A. 永井家です。

Q9. 二の丸跡で確認された、堀底から渡りにくくする仕掛けは?

A. 堀障子です。

Q10. 軟弱な地盤で石垣を支えるために使われた木組みは?

A. 梯子胴木です。

参考資料