鳥取城は「秀吉が飢えさせた山城」で終わらない。中世・織豊・近世が一つの山に重なる城
- 始まりは16世紀中ごろとされます。築城者・年代には伝承を含みますが、武田高信を経て1573年に山名豊国が本拠を移しました。
- 久松山の険しさが城の強さでした。山頂から因幡平野と日本海側の交通を見渡せ、正面攻撃だけでは落としにくい城でした。
- 1581年、秀吉は城ではなく補給網を攻めました。東約1.5kmの太閤ヶ平を本陣とし、陣城・土塁・堀で毛利方の救援と兵糧搬入を遮断しました。
- 落城後、城は廃されず大きく変わりました。宮部継潤、池田長吉、池田光政、池田光仲らの時代に山麓の石垣・御殿・堀・城下町が整えられました。
- 現在は城郭の変化を歩いて見られます。山上ノ丸、山下ノ丸、全国唯一の球面を持つ巻石垣、復元された大手登城路、太閤ヶ平が残ります。
なぜ久松山に城を築いた?
鳥取城が築かれた久松山は、鳥取平野の東側に立つ急峻な山です。山頂部は標高約263mで、尾根続きになる東側を除けば斜面が険しく、山麓から山上へ登れる道が限られます。『信長公記』も鳥取城を「四方離れて嶮しき山城」と記しました。
山頂からは鳥取平野、千代川流域、日本海側を広く見渡せます。因幡の内陸と海岸部を結ぶ道を監視し、但馬・伯耆方面と向き合ううえでも重要でした。城を取ることは山頂の曲輪を奪うだけでなく、因幡の政治中心と山陰側の前線を押さえることを意味しました。
急な独立峰
険しい斜面が攻め手の動きを制限し、少ない進路へ守備を集中できました。
平野を見渡す
城下、街道、川、海岸方面の動きを山頂から広く把握できました。
山陰の前線
織田方と毛利方が争った時期には、因幡を越えて山陰道を進むための要地でした。
誰が築き、山名豊国の本拠になった?
鳥取城の始まりは、天文14年(1545)に山名誠通が天神山城の出城として築いたという伝承で語られてきました。ただし鳥取市の現在の説明は、16世紀中ごろに因幡山名氏または但馬山名氏が砦を築いたとし、築城者を一人へ断定していません。
1562年には武田高信が久松山を拠点に山名氏へ反旗を翻します。高信を退けた山名豊国は1573年、布勢の天神山城から鳥取城へ本拠を移しました。この段階で鳥取城は単なる出城から、因幡支配の中心へ立場を変えます。
久松山に城の原形が築かれたと考えられます。1545年築城説は後世の地誌に基づく伝承を含みます。
山名氏の家臣だった高信が久松山を押さえ、因幡の主導権を争います。
天神山城から本拠を移し、鳥取城と城下が因幡の政治中心になっていきます。
山上ノ丸・山下ノ丸・太閤ヶ平は、どう違う?
鳥取城の特徴は、一つの本丸を中心に見るだけでは分からないことです。中世の山城を受け継ぐ山上ノ丸、江戸時代の政治と生活の中心になった山下ノ丸、1581年に攻め手が築いた太閤ヶ平という、役割も時代も異なる三つの区域が残ります。
| 区域 | 何があり、何を示す? |
|---|---|
| 山上ノ丸 | 久松山頂の本丸・二ノ丸・三ノ丸・出丸。天守台や井戸が残り、険しい地形を使う中世山城と、石垣・天守を加えた織豊期以後の改修が重なります。 |
| 山下ノ丸 | 山麓の二ノ丸・三ノ丸・天球丸など。高石垣、御殿、櫓、大手門、内堀を備え、藩政と城下町の中心になりました。 |
| 太閤ヶ平 | 本陣山山頂に残る秀吉方の本陣。一辺約50mの内郭を土塁と空堀が囲み、鳥取城側には総延長約700mの二重竪堀・竪土塁が築かれました。 |
山上ノ丸の天守は元禄5年(1692)に落雷で焼失し、再建されませんでした。その後は山下ノ丸二ノ丸の三階櫓が城の象徴となります。「天守がなくなったから城が終わった」のではなく、政治・居住の中心がすでに山麓へ移っていたことを示す変化です。
秀吉は鳥取城をどう落とした?
鳥取城攻めは一度ではありません。1580年の第一次攻撃で山名豊国は羽柴秀吉に降りますが、毛利方との対立を続けようとする家臣らが城を再び押さえました。毛利方から吉川経家が入り、1581年の第二次攻撃で籠城を指揮します。
豊臣秀吉は、久松山へ正面攻撃を続けるのではなく、太閤ヶ平を中心とする陣城群で周辺を押さえました。賀露港や伯耆側の海上支援にも攻撃を加え、城へ人と兵糧が入る経路を狭めます。包囲の結果、城内では兵だけでなく避難した人々も深刻な飢えに苦しみました。
10月、経家は城兵・住民の助命を求めて自刃し、鳥取城は開城します。「兵糧を高値で買い占めて城を空腹にした」という有名な話だけで全体を説明するのではなく、陣城、陸路、海路、毛利の救援をまとめて封じる広域戦として見る必要があります。
戦いの詳しい経過は、場所ページへ詰め込まず分けています。1580年と1581年の違い、吉川経家の決断、三木から備中高松へ続く秀吉軍の包囲戦は、鳥取城攻めの個別ページで追えます。
宮部継潤と池田氏は、山城をどう変えた?
1581年の開城後、秀吉は宮部継潤を鳥取城へ置きました。継潤とその子・長房の時代に、山麓の石垣や城下の整備が始まったと考えられます。鳥取城は毛利方から奪った前線拠点であると同時に、豊臣政権が因幡を継続して治める拠点になりました。
関ヶ原後の1601年には池田長吉が入城し、内堀・外堀や城下町を整えます。1617年には池田輝政の孫・池田光政が因幡・伯耆32万石の領主として入り、城と城下を大規模に拡張しました。袋川の開削、武家屋敷・町人町・寺院の配置が進み、現在の鳥取市中心部の原形がつくられます。
1632年に池田光仲が入ると、その家系が幕末まで鳥取藩を治めました。山上の要害だけだった城が、山麓の御殿と役所、堀、その外側の城下町を一体化した政治都市へ変わったのです。
宮部氏
落城後の因幡を預かり、豊臣政権の前線拠点として石垣・城下の整備を始めました。
池田長吉
関ヶ原後の領主として山麓と堀を改修し、近世城郭化を進めました。
池田光政
32万石の居城にふさわしい城と城下へ大拡張し、現在の都市構造の基礎を築きました。
池田光仲以後
鳥取池田家の藩政中心として幕末まで使われ、山下ノ丸が城の実務を担いました。
天球丸の「巻石垣」は、なぜ丸い?
天球丸は山下ノ丸の高所にある曲輪です。名称は池田長吉の姉・天球院の居所があったという伝承にちなみ、丸い石垣があるから天球丸と呼ばれたわけではありません。
曲面を描く巻石垣は、石垣の崩落を防ぐため江戸時代末ごろに付け足されたものです。角を持たない球面状の石垣は、確認されている城郭遺構では全国唯一と鳥取市が説明しています。戦国期の防御施設ではなく、長く使われた城を維持するための補強技術として見るのが大切です。
鳥取城跡を歩くなら、どこに注目する?
山下ノ丸
二ノ丸の高石垣、天球丸と巻石垣、内堀を見れば、鳥取藩の政治拠点だった城の規模が分かります。
大手登城路
擬宝珠橋、中ノ御門表門・渡櫓門などの復元から、藩主の城へ入る正式な動線をたどれます。
山上ノ丸
急坂の先に天守台・曲輪・井戸が残り、戦国期の山城と近世の石垣改修が重なる姿を確認できます。
太閤ヶ平
鳥取城から東約1.5kmの本陣跡。城と攻め手の陣を両方見ると、包囲戦の広さが実感できます。
鳥取城跡は1957年に国史跡となり、太閤ヶ平は1987年に追加指定されました。明治初期まで残った櫓・門の多くは1879年ごろまでに解体されましたが、石垣、曲輪、堀、陣城がまとまって残り、中世から近代までの変化を一つの場所で読めます。登城や見学時は、復元工事・通行規制・山道の状況を鳥取市の最新案内で確認してください。
鳥取城をめぐる5つの疑問
Q1. 鳥取城を築いたのは誰?
1545年に山名誠通が築いたという伝承がありますが、現在の鳥取市の説明は16世紀中ごろに因幡または但馬の山名氏が築いたとし、一人へ断定していません。
Q2. 「鳥取の渇え殺し」と「三木の干し殺し」は同じ戦い?
別の戦いです。三木城は1578~1580年の播磨、鳥取城は1581年の因幡が中心です。どちらも補給を断つ長期包囲ですが、地形・期間・包囲網の作り方は異なります。
Q3. 吉川経家は鳥取城のもともとの城主?
いいえ。1581年に毛利方から籠城指揮のため派遣された人物です。山名豊国が去った後の城を守り、開城時に自刃しました。
Q4. 今見える石垣は、秀吉が攻めたときのもの?
多くは落城後、宮部氏・池田氏の時代に整えられたものです。1581年の鳥取城と、江戸時代の山麓城郭を同じ姿だと思わないことが重要です。
Q5. 鳥取城に天守はあった?
山上ノ丸に天守がありましたが、1692年に落雷で焼失し再建されませんでした。その後は山下ノ丸二ノ丸の三階櫓が象徴的な役割を担いました。