地域ページ / 瀬戸内海 / 西讃・東讃・阿波への道

讃岐国

現在の香川県にあたる讃岐国は、瀬戸内海に面して東西に長く、西讃の香川氏、東讃の十河氏をはじめ複数の地域勢力が並んでいました。阿波三好氏の影響、長宗我部元親の侵攻、豊臣秀吉の四国平定を追うと、讃岐が「一人の大名の領国」になるまでの長い再編が見えてきます。

香川氏と西讃十河氏と東讃長宗我部氏豊臣政権

このページの結論

讃岐は「三好領」から「長宗我部領」へ単純に塗り替わったのではない

  • 室町期は細川氏が守護でしたが、現地では香川氏などの守護代と、香西・寒川・安富・十河ら地域武士がそれぞれの基盤を持ちました。
  • 東讃の十河氏は三好長慶の弟・十河一存を迎え、阿波・淡路・畿内へ広がる三好一族の網に加わりました。
  • 西讃の香川氏は独自に織田氏・毛利氏とも関係を結び、三好氏へ常に従ったわけではありません。
  • 長宗我部氏の支配は1570年代後半から広がりましたが、1585年の秀吉による四国平定で終わり、仙石・尾藤を経て生駒氏の一国支配へ移りました。
東西に長い海辺の国

讃岐の地理は、東・中央・西で政治の向きを変えた

讃岐の北は瀬戸内海、南は阿讃山地です。平野と小規模な山地が東西に連なり、海沿いの港から備前・備中・播磨、山越えの道から阿波へ通じました。国の中央だけを押さえても、東西の地域勢力と港を同時には支配しにくい地形です。

東讃:阿波に近い

大坂峠などを越えて阿波へ通じ、十河・寒川らが活動しました。十河氏と三好氏の養子縁組は、近接する二地域を軍事的にも一族関係でも結びました。

中央:高松平野と港

香西・安富などの勢力が活動し、港と平野をめぐる関係が複雑でした。近世の高松城が中心になる前は、一つの城下へ国の機能が集中していません。

西讃:天霧城と瀬戸内航路

香川氏が天霧城と多度津周辺を基盤にし、仁尾などの港町も発達しました。伊予・中国地方の勢力とも結びやすく、東讃とは異なる外交を選べました。

瀬戸内海は国境ではなく道でした。兵・年貢・塩・海産物だけでなく、京都や堺の情報・文化も海を渡ります。その一方、阿波からの陸路は三好氏や長宗我部氏の侵攻路にもなりました。

在地勢力は固定した家臣ではない

香川・十河・香西らは、どこで力を持った?

勢力主な基盤戦国期の動き
香川氏西讃。天霧城と多度津周辺。細川氏のもとで守護代を務めた有力家。香川信景は阿波三好氏と戦い、織田・毛利とも関係を結びました。長宗我部侵攻後は元親の次男・親和を養子に迎えて従属し、1585年に土佐へ移ります。
十河氏東讃。十河城と周辺の平野。三好長慶の弟・一存、三好実休の子・存保が家を継ぎました。三好氏の畿内進出を支え、後には阿波・讃岐で長宗我部氏へ抵抗します。
香西・安富・寒川氏など中央部・東部の平野、港、地域城館。守護・三好・長宗我部の間で同盟や服属先を変えました。「讃岐勢」という一団ではなく、所領と家中を守る判断がそれぞれ違います。
阿波三好氏阿波の勝瑞を本国とし、十河氏を通じて東讃へ接続。一存らを畿内へ送り、讃岐の兵力と海路を長慶政権へ組み込みました。ただし西讃まで一貫して直接支配したわけではありません。
長宗我部氏土佐から阿波を経て東讃・西讃へ進出。香川氏を養子関係で組み込み、十河存保を軍事的に圧迫しました。地域勢力ごとに服属の形を変えながら支配を広げます。
讃岐は畿内政権を支えた

十河一存が三好長慶へ提供したもの

十河一存は長慶の弟ですが、単に「兄の家臣」ではありません。在地の十河氏を継いだことで、讃岐東部の城・武士・海路を三好一族の広域網へ接続しました。一存は摂津・河内などで転戦し、1549年の江口の戦いでは長慶方の勝利を支えます。

阿波・勝瑞

三好氏の本国であり、兵と物資を集める政治・経済拠点でした。

讃岐・十河

東讃の地域勢力をまとめ、阿波と瀬戸内海航路をつなぐ出発点でした。

淡路・安宅

海上交通と船を担い、阿波・讃岐から摂津へ向かう動きを支えました。

畿内・長慶

四国から届く一族・軍勢・物資を使い、将軍と細川氏をめぐる京都政治を動かしました。

この仕組みは三好兄弟が健在な間は強力でしたが、一存・実休・長慶が相次いで死ぬと、四国と畿内を束ねる中心を失います。十河存保は、拡大のための東讃拠点だった十河城を、長宗我部氏に抗戦する前線として使うことになりました。

守護支配から一国支配へ

讃岐国の流れを時系列で追う

14〜15世紀
細川氏の守護支配

細川氏が讃岐守護を務め、香川氏などの守護代・代官が現地支配を担います。港町や地域武士は守護の命令だけで動く存在ではありませんでした。

16世紀中頃
十河氏が三好一族へ加わる

三好長慶の弟・一存が十河氏を継ぎ、東讃は阿波・淡路・畿内へ広がる三好氏の軍事網に組み込まれます。

1561–77
三好一族の相次ぐ死と四国側の分裂

一存・実休・長慶が没し、阿波では篠原長房・三好長治も滅亡。十河存保が阿波三好系勢力の再建を担う一方、香川氏は独自外交を続けました。

1578–81
長宗我部元親が讃岐へ進出

西讃の香川信景は抵抗の後、元親の次男・親和を養子に迎れて従属します。養子縁組は対等な友好ではなく、長宗我部支配を受け入れる条件でした。

1582–84
十河存保の抗戦が崩れる

中富川合戦で三好・十河方が敗れ、存保は阿波の勝瑞から讃岐へ退きます。1584年頃までに十河城を維持できなくなり、長宗我部氏の讃岐支配が進みました。

1585
秀吉の四国平定

豊臣軍の侵攻を受けて元親は降伏し、土佐一国へ領域を縮小。讃岐には仙石秀久が入り、地域勢力の連合ではない豊臣政権の一国支配が始まります。

1586–87
尾藤知宣を経て生駒親正へ

讃岐の領主は短期間で交代し、1587年に生駒親正が一国を与えられます。1588年から高松城を築き、海辺の高松へ政治・城下町機能を集約しました。

豊臣政権は、讃岐の何を変えたのか

香川氏・十河氏らの支配は、城・一族・被官・地域社会の積み重ねで成り立っていました。秀吉は四国平定後に国単位で大名を配置し、仙石・尾藤・生駒と領主を入れ替えます。古い地域勢力をそのまま勝者にするのではなく、全国政権が任命した大名へ支配をまとめた点が大きな変化です。

戦国期の讃岐を「高松の前史」だけで見ると、東西の違いが消えてしまいます。 西讃の香川氏、東讃の十河氏、阿波から来る三好・長宗我部、瀬戸内海の港を別々に追ったうえで、最後に高松城へ集約される流れを見ることが重要です。

よくある混同を整理する

  • 「讃岐は三好長慶の領国」:東讃では強い影響を持ちましたが、西讃の香川氏などは独自の外交・軍事行動を続けました。
  • 「香川氏は長宗我部氏と対等に同盟した」:養子縁組を伴う和議でしたが、善通寺市は実質的な降伏と説明しています。
  • 「長宗我部氏が安定して讃岐を統一した」:支配の浸透中に秀吉の四国平定を受け、長期的な領国統治には至りませんでした。
  • 「秀吉の後すぐ生駒氏になった」:1585年の仙石秀久、1586年の尾藤知宣を経て、1587年に生駒親正が入りました。

参考にした資料