方広寺鐘銘事件とは?
- 問題にされたのは、鐘の銘文。「国家安康」は家康の名を切り分けて呪うもの、「君臣豊楽」は豊臣を主君として楽しむもの、と家康の側が問題にした。
- 家康は、大仏の開眼供養の延期を命じた。供養は、豊臣方が家康の了承を得ながら準備を進めていたものだった。
- 弁明にあたった片桐且元は、大坂城を去った。且元は豊臣方で裏切り者とみなされて孤立し、10月1日に城を出た。
- この年の冬、大坂冬の陣が始まった。鐘銘から始まった対立は、11月の開戦に至った。
- 問題の鐘は、今も方広寺に残る。重要文化財に指定されている。
鐘の文字から開戦まで、どう進んだのか
- 01大仏と大仏殿の再建
方広寺の大仏は、豊臣秀吉が1586年に造営を計画したもので、大仏殿は1595年ごろに完成しました。大仏は翌1596年の大地震で倒れます。秀吉の死後、子の秀頼が再建に取りかかりましたが、1602年には鋳造中の大仏から火が出ました。秀頼は1608年に改めて再建を図り、大仏は1612年に完成、大仏殿などの再建は1614年に終わります。問題の鐘も、この再建のときに鋳造されたものです。
- 021614年:供養の延期と、且元の弁明
豊臣方では片桐且元が駿府へ向かい、大仏の開眼供養の日時などについて家康の了承を得ながら、準備を進めていました。ところが家康は、鐘の銘文に関東(徳川方)にとって不吉な語があるとして、供養の延期を命じます。且元は、この銘文の件の弁明のため、家康のもとへ向かいました。しかし豊臣方の中では、家康との交渉にあたる且元が強硬派から疑いの目を向けられ、裏切り者とみなされて、大坂城内で孤立します。
- 03出陣の命令と、且元の退去
鐘銘に端を発した両家の対立は、もう戦いを避けられない状態になっていました。家康は9月から10月にかけて、諸大名に大坂への出陣を命じます。この間の10月1日、且元は弟の貞隆とともに大坂城を出て、茨木城へ退きました。この退去は、大坂冬の陣が起こるきっかけの一つになります。
- 04豊臣方の備えと、冬の陣
豊臣方は、兵粮(軍の食料)を大坂城へ入れ、牢人(仕える主家を持たない武士)たちが入城します。11月半ば過ぎ、徳川方の軍勢が大坂城を囲み、大坂冬の陣が始まりました。
「国家安康」「君臣豊楽」は、なぜ問題とされたのか
- 「国家安康」:家康の名を切り分けた、とされた。この4字では、家康の名の「家」と「康」のあいだに「安」が入り、名が二つに切り分けられています。家康の側は、これを家康の名を切って呪うもの、家康の胴を切るものだとしました。
- 「君臣豊楽」:豊臣を主君とする、とされた。家康の側は、「君臣豊楽」を、豊臣を主君として楽しむという意味だとしました。2句をあわせて、徳川家を呪い、豊臣家の繁栄を祝う内容と解釈したのです。
- 問題にした側の読み方。どちらも、銘文を問題にした家康の側の読み方です。京都市や柏原市の解説は、これを家康の「難癖」「いいがかり」と表現しています。
方広寺鐘銘事件についてのよくある疑問
問題の鐘は今も残っているのか?
残っています。鐘銘事件のもとになった鐘は豊臣家の滅亡後も残され、今も方広寺(京都市東山区)に鐘楼とともにあり、重要文化財に指定されています。「国家安康」「君臣豊楽」の部分は、白く塗られています。大仏と方広寺の歴史は方広寺と京の大仏で整理しています。
参考にした資料
- 京都市「都市史19 大仏殿」(豊臣秀吉が天正14年〈1586〉に大仏の造営を計画し、大仏殿が文禄4年〈1595〉ごろに完成したこと・慶長元年〈1596〉の慶長大地震で大仏が倒壊したこと・秀吉の遺志を継いだ秀頼が大仏の再建に着手し、慶長7年〈1602〉に鋳造中の大仏から出火したこと・慶長13年〈1608〉に再び再建を企て、大仏が慶長17年〈1612〉に完成したこと・慶長19年〈1614〉に家康が開眼供養の延期を命じたこと・鐘が秀頼の大仏再建の際に鋳造されたこと・「国家安康」の部分が家康の胴を切るものだとして家康が難癖をつけ、これをきっかけに大坂の陣が開戦したという説明・鐘が豊臣家の滅亡後も残され、方広寺〈東山区〉に鐘楼とともに残り、重要文化財に指定されていること・鐘の「国家安康」「君臣豊楽」の部分が白く塗られていること)
- 国立公文書館「方広寺鐘銘事件」(地震や火災で崩壊した大仏殿などを秀頼が再建し、慶長19年〈1614〉に竣工したこと・豊臣側は片桐且元が駿府に向かい、大仏の開眼供養の日時などについて家康の了承を得つつ準備を進めていたこと・鐘銘に「関東不吉之語」があるとして供養の延期を命じられたこと・「国家安康」「君臣豊楽」の文字が、徳川家を呪い豊臣家の繁栄を祝う内容と解釈されたこと)
- 柏原市「玉手山と大坂夏の陣」第2節「大坂冬の陣への序曲」(家康が鐘銘の「国家安康、君臣豊楽」にいいがかりをつけたこと・「家康」の名を切って家康を呪っている、「君臣豊楽」は豊臣を主君として楽しむ意味だ、とされたこと・この一件の弁明のため片桐且元が家康のもとへ向かったこと・且元が豊臣氏から裏切り者の汚名をかぶせられて大坂城から退けられ、両者の戦いが避けられない情勢となったこと)
- 柏原市文化財課「【広報コラム】「徳川家康と柏原」(2024・1)」(豊臣方の重臣だった片桐且元が、家康との交渉の過程で豊臣方の強硬派に疑いの目を向けられ、大坂冬の陣の前に大坂城を去っていたこと・秀頼が秀吉の子であること)
- 茨木市「史料にみる茨木城」(木村健明。慶長19年〈1614〉10月1日に、大坂城内で孤立した片桐且元・貞隆兄弟が茨木城へ退去し、それが大坂冬の陣のきっかけの一つとなったこと)
- 国立公文書館「大坂冬の陣・夏の陣」(方広寺の鐘銘に端を発した徳川方と豊臣方の対決が、避けられない状態になっていたこと・家康が慶長19年〈1614〉9月から10月にかけて諸大名に大坂への出陣を命じたこと・豊臣方が兵粮を大坂城へ入れ、牢人が入城したこと・11月半ば過ぎに徳川方の軍勢が大坂城を囲み、冬の陣が始まったこと)
- 文化遺産オンライン「方広寺大仏鐘銘〈清韓筆/〉」(方広寺大仏の鐘銘を清韓が筆で書いた書の記録。1幅・江戸時代・昭和10年〈1935〉4月30日指定の重要文化財・所在地 静岡県熱海市。方広寺に残る鐘そのものとは別の資料で、このページの鐘の現存・指定の裏付けには用いていない)
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訂正の記録
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- 2026年10月16日 経過で、弁明に向かった且元が家康と会えず、淀殿の使者は手厚く迎えられ、その扱いの差が大坂方の疑いを深めたと書いていました。資料欄の資料で支えられないため削り、且元が銘文の件の弁明のため家康のもとへ向かったことを書く形に改めました。
- 2026年10月16日 冒頭・要点・経過・次にたどるカードで、帰坂した且元が秀頼の江戸参勤や淀殿を人質に出すことなどの条件を示したことを、且元が「裏切り」と受け取られた理由として書き、豊臣方が弁明に追われて交渉が決裂したこと、家康が且元の退去を機に出陣を決めたこと、且元が両家の板挟みの交渉役だったことも書いていました。資料欄の資料で支えられないため、これらを削りました。且元が豊臣方で裏切り者とみなされて孤立し、10月1日に大坂城を出たこと、家康が9月から10月にかけて諸大名に出陣を命じたことは、資料に沿って書いています。
- 2026年10月16日 経過で、鐘銘を問題にしたのを「徳川側の僧や学者」としていました。資料欄の資料で確かめられる、家康の側が銘文を問題にし、家康が開眼供養の延期を命じたことを書く形に改めました。
- 2026年10月16日 冒頭・要点・経過・「どう読むか」の節(今の「「国家安康」「君臣豊楽」は、なぜ問題とされたのか」)・よくある疑問で、秀頼が再建に巨額を投じたこと、鐘が大仏殿の完成の前に鋳造されたこと、事件を開戦の口実とする見方を「古くからの通説」とする分類、名の文字を避ける作法を重く見る見方、徳川と豊臣が並び立つ「二重公儀」の見方、関ヶ原のあとの両家の上下を問うよくある疑問(秀頼が摂関家に並ぶ別格の存在だったこと、豊臣家が徳川に臣下の礼をとっていなかったことを含む)、事件で両家の共存が終わったという評価を書いていました。資料欄の資料で支えられないため、削りました。