事件・合戦ページ / 1614年・大坂の陣のきっかけ

方広寺鐘銘事件ほうこうじしょうめいじけん

方広寺鐘銘事件は、1614年、豊臣秀頼が再建した京都・方広寺の梵鐘ぼんしょうに刻まれた「国家安康」「君臣豊楽」の文字が問題とされ、徳川家康とくがわ いえやすが大仏の開眼供養かいげんくよう(仏像の完成にあたって行う供養の儀式)の延期を命じた事件です。この問題をきっかけに両家の対立は戦いへ向かい、この年の冬、大坂冬の陣が始まりました。

1614年 「国家安康こっかあんこう」「君臣豊楽くんしんほうらく」 片桐且元かつもとの退去 大坂冬の陣へ

方広寺鐘銘事件とは?

  • 問題にされたのは、鐘の銘文。「国家安康」は家康の名を切り分けて呪うもの、「君臣豊楽」は豊臣を主君として楽しむもの、と家康の側が問題にした。
  • 家康は、大仏の開眼供養の延期を命じた。供養は、豊臣方が家康の了承を得ながら準備を進めていたものだった。
  • 弁明にあたった片桐且元は、大坂城を去った。且元は豊臣方で裏切り者とみなされて孤立し、10月1日に城を出た。
  • この年の冬、大坂冬の陣が始まった。鐘銘から始まった対立は、11月の開戦に至った。
  • 問題の鐘は、今も方広寺に残る。重要文化財に指定されている。
経過

鐘の文字から開戦まで、どう進んだのか

  1. 01大仏と大仏殿の再建

    方広寺の大仏は、豊臣秀吉とよとみ ひでよしが1586年に造営を計画したもので、大仏殿は1595年ごろに完成しました。大仏は翌1596年の大地震で倒れます。秀吉の死後、子の秀頼が再建に取りかかりましたが、1602年には鋳造ちゅうぞう中の大仏から火が出ました。秀頼は1608年に改めて再建を図り、大仏は1612年に完成、大仏殿などの再建は1614年に終わります。問題の鐘も、この再建のときに鋳造されたものです。

  2. 021614年:供養の延期と、且元の弁明

    豊臣方では片桐且元が駿府へ向かい、大仏の開眼供養の日時などについて家康の了承を得ながら、準備を進めていました。ところが家康は、鐘の銘文に関東(徳川方)にとって不吉な語があるとして、供養の延期を命じます。且元は、この銘文の件の弁明のため、家康のもとへ向かいました。しかし豊臣方の中では、家康との交渉にあたる且元が強硬派から疑いの目を向けられ、裏切り者とみなされて、大坂城内で孤立します。

  3. 03出陣の命令と、且元の退去

    鐘銘に端を発した両家の対立は、もう戦いを避けられない状態になっていました。家康は9月から10月にかけて、諸大名に大坂への出陣を命じます。この間の10月1日、且元は弟の貞隆とともに大坂城を出て、茨木城へ退きました。この退去は、大坂冬の陣が起こるきっかけの一つになります。

  4. 04豊臣方の備えと、冬の陣

    豊臣方は、兵粮ひょうろう(軍の食料)を大坂城へ入れ、牢人ろうにん(仕える主家を持たない武士)たちが入城します。11月半ば過ぎ、徳川方の軍勢が大坂城を囲み、大坂冬の陣が始まりました。

銘文

「国家安康」「君臣豊楽」は、なぜ問題とされたのか

  • 「国家安康」:家康の名を切り分けた、とされた。この4字では、家康の名の「家」と「康」のあいだに「安」が入り、名が二つに切り分けられています。家康の側は、これを家康の名を切って呪うもの、家康の胴を切るものだとしました。
  • 「君臣豊楽」:豊臣を主君とする、とされた。家康の側は、「君臣豊楽」を、豊臣を主君として楽しむという意味だとしました。2句をあわせて、徳川家を呪い、豊臣家の繁栄を祝う内容と解釈したのです。
  • 問題にした側の読み方。どちらも、銘文を問題にした家康の側の読み方です。京都市や柏原市の解説は、これを家康の「難癖なんくせ」「いいがかり」と表現しています。

大坂の陣の経過は大坂冬の陣と大坂夏の陣で、豊臣家の全体像は豊臣家で整理しています。

よくある疑問

方広寺鐘銘事件についてのよくある疑問

問題の鐘は今も残っているのか?

残っています。鐘銘事件のもとになった鐘は豊臣家の滅亡後も残され、今も方広寺(京都市東山区)に鐘楼とともにあり、重要文化財に指定されています。「国家安康」「君臣豊楽」の部分は、白く塗られています。大仏と方広寺の歴史は方広寺と京の大仏で整理しています。

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参考にした資料

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