人物ページ / 豊臣秀頼を支え、1614年に大坂城を去った家老

片桐且元かたぎり かつもと

片桐且元かたぎり かつもとは、豊臣秀頼とよとみ ひでよりに仕えた家老です。秀頼が進めた寺社の再建に関わり、方広寺鐘銘事件ほうこうじしょうめいじけんが起きた1614年に大坂城を去りました。

1556 - 1615賤ヶ岳の七本槍秀頼の後見役・豊臣家の家老茨木城へ退去

片桐且元を理解する要点

且元は近江国(今の滋賀県)の出身で、羽柴(豊臣)秀吉に仕えました。1583年に秀吉と柴田勝家しばた かついえが戦った賤ヶ岳の戦いしずがたけのたたかいで活躍した7人の武将、いわゆる「七本槍」の一人です。1598年に秀吉が没すると、跡を継いだ秀頼の後見役となりました。

秀頼の代には豊臣家の家老として、片埜神社かたのじんじゃや方広寺大仏殿の再建に奉行として加わります。1614年、秀頼が再建した方広寺の大仏の開眼供養かいげんくようは、鐘の銘文が問題とされて延期になりました。同じ年の10月、且元は弟の貞隆さだたかとともに大坂城を出て茨木城へ退きます。翌1615年の大坂夏の陣では徳川方に加わったとされ、その後まもなく没しました。

関係人物と事件

豊臣秀吉とよとみ ひでよし且元が仕えた主君です。
豊臣秀頼とよとみ ひでより秀吉の跡を継いだ主君。且元はその後見役でした。
徳川家康とくがわ いえやす方広寺の大仏の開眼供養の日時などについて、駿府すんぷへ向かった且元が了承を得ようとした相手です。
片桐貞隆且元の弟。兄とともに大坂城を出て、茨木城へ入ります。
賤ヶ岳の戦い且元が「七本槍」の一人に数えられる戦いです。
大坂冬の陣且元の大坂城退去が、起こるきっかけの一つになった戦いです。

生涯年表

賤ヶ岳の戦い

秀吉方として活躍し、「七本槍」の一人に数えられます。

秀吉が死去

秀吉の没後、且元は秀頼の後見役となります。

片埜神社かたのじんじゃ本殿の再建の総奉行

秀頼が再建した片埜神社(今の大阪府枚方市)の本殿で、総奉行そうぶぎょうを務めます。

方広寺大仏殿の再建の工事が始まる

6月12日に地鎮祭じちんさいが行われ、工事が始まります。

開眼供養の延期

大仏殿が完成します。大仏の開眼供養は、鐘の銘文を理由に延期されました(方広寺鐘銘事件)。

大坂城を退去

10月1日、弟の貞隆とともに大坂城を出て茨木城へ入ります。12日には、大坂方(大坂城の豊臣方)に攻められた堺へ援軍を出しますが、敗れました。

大坂夏の陣

徳川方に加わったとされます。この戦いで豊臣家は滅亡しました。

死去

夏の陣ののち、まもなく没しました。

秀頼の家老として――豊国神社と寺社の工事

京都の豊国神社とよくにじんじゃは、秀吉を祀る神社です。且元は、秀頼の名代みょうだい(代理)として豊国祭に参加するなど、この神社にたびたび関わりました。

寺社の工事では、取りまとめ役を務めています。片埜神社の本殿に残る棟札むなふだ(建物を建てたときの記録の札)によると、1602年、秀頼は且元を総奉行として本殿を再建しました。京都の方広寺の大仏殿では、秀吉が建てたときと、秀頼が再建したときの両方で、作事奉行さくじぶぎょうを務めています。

方広寺鐘銘事件――大坂城を去るまでと、その後

京都の方広寺は、秀吉が1586年に大仏を安置して建てた寺です。その後、地震や火災で崩れた大仏殿などを、秀頼が再建しました。この再建では、1609年に秀頼から棟梁に任じられた大工の中井正清なかい まさきよが、作事奉行の且元とともに事業を統率しています。工事は1610年に始まり、大仏殿は1614年に完成しました。

且元は駿府へ向かい、大仏の開眼供養(仏像の完成にあたって行う供養の儀式)の日時などについて、家康の了承を得ながら準備を進めていました。ところが、方広寺の鐘の銘文に関東(徳川方)にとって不吉な語があるとされ、豊臣方は家康の側から供養の延期を命じられます。問題とされたのは「国家安康こっかあんこう」「君臣豊楽くんしんほうらく」の文字で、家康の側はこれを、徳川家を呪い、豊臣家の繁栄を祝う内容だと解釈しました。これが方広寺鐘銘事件です。

且元は豊臣方の重臣でしたが、同じ豊臣方の強硬派から疑いの目を向けられ、大坂城内で孤立していました。1614年10月1日、且元は弟の貞隆とともに大坂城を出て、茨木城(今の大阪府茨木市)へ退きます。この退去は、大坂冬の陣が起こるきっかけの一つになっています。

退去のあとの10月12日、大坂方が堺を攻めたため、且元は堺へ援軍を出しましたが、敗れています。翌1615年の大坂夏の陣では徳川方に加わったとされ、この戦いで豊臣家は滅亡しました。且元は、その後まもなく没しています。

読み違えやすい点

  • 茨木城へ退いたことと、茨木城の城主だったことは別のことです。茨木城の城主には且元を挙げる説明が一般的ですが、弟の貞隆とする研究もあります。

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参考資料

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