片桐且元を理解する要点
且元は近江国(今の滋賀県)の出身で、羽柴(豊臣)秀吉に仕えました。1583年に秀吉と柴田勝家が戦った賤ヶ岳の戦いで活躍した7人の武将、いわゆる「七本槍」の一人です。1598年に秀吉が没すると、跡を継いだ秀頼の後見役となりました。
秀頼の代には豊臣家の家老として、片埜神社や方広寺大仏殿の再建に奉行として加わります。1614年、秀頼が再建した方広寺の大仏の開眼供養は、鐘の銘文が問題とされて延期になりました。同じ年の10月、且元は弟の貞隆とともに大坂城を出て茨木城へ退きます。翌1615年の大坂夏の陣では徳川方に加わったとされ、その後まもなく没しました。
関係人物と事件
| 豊臣秀吉 | 且元が仕えた主君です。 |
|---|---|
| 豊臣秀頼 | 秀吉の跡を継いだ主君。且元はその後見役でした。 |
| 徳川家康 | 方広寺の大仏の開眼供養の日時などについて、駿府へ向かった且元が了承を得ようとした相手です。 |
| 片桐貞隆 | 且元の弟。兄とともに大坂城を出て、茨木城へ入ります。 |
| 賤ヶ岳の戦い | 且元が「七本槍」の一人に数えられる戦いです。 |
| 大坂冬の陣 | 且元の大坂城退去が、起こるきっかけの一つになった戦いです。 |
生涯年表
賤ヶ岳の戦い
秀吉方として活躍し、「七本槍」の一人に数えられます。
秀吉が死去
秀吉の没後、且元は秀頼の後見役となります。
片埜神社本殿の再建の総奉行
秀頼が再建した片埜神社(今の大阪府枚方市)の本殿で、総奉行を務めます。
方広寺大仏殿の再建の工事が始まる
6月12日に地鎮祭が行われ、工事が始まります。
開眼供養の延期
大仏殿が完成します。大仏の開眼供養は、鐘の銘文を理由に延期されました(方広寺鐘銘事件)。
大坂城を退去
10月1日、弟の貞隆とともに大坂城を出て茨木城へ入ります。12日には、大坂方(大坂城の豊臣方)に攻められた堺へ援軍を出しますが、敗れました。
大坂夏の陣
徳川方に加わったとされます。この戦いで豊臣家は滅亡しました。
死去
夏の陣ののち、まもなく没しました。
秀頼の家老として――豊国神社と寺社の工事
京都の豊国神社は、秀吉を祀る神社です。且元は、秀頼の名代(代理)として豊国祭に参加するなど、この神社にたびたび関わりました。
寺社の工事では、取りまとめ役を務めています。片埜神社の本殿に残る棟札(建物を建てたときの記録の札)によると、1602年、秀頼は且元を総奉行として本殿を再建しました。京都の方広寺の大仏殿では、秀吉が建てたときと、秀頼が再建したときの両方で、作事奉行を務めています。
方広寺鐘銘事件――大坂城を去るまでと、その後
京都の方広寺は、秀吉が1586年に大仏を安置して建てた寺です。その後、地震や火災で崩れた大仏殿などを、秀頼が再建しました。この再建では、1609年に秀頼から棟梁に任じられた大工の中井正清が、作事奉行の且元とともに事業を統率しています。工事は1610年に始まり、大仏殿は1614年に完成しました。
且元は駿府へ向かい、大仏の開眼供養(仏像の完成にあたって行う供養の儀式)の日時などについて、家康の了承を得ながら準備を進めていました。ところが、方広寺の鐘の銘文に関東(徳川方)にとって不吉な語があるとされ、豊臣方は家康の側から供養の延期を命じられます。問題とされたのは「国家安康」「君臣豊楽」の文字で、家康の側はこれを、徳川家を呪い、豊臣家の繁栄を祝う内容だと解釈しました。これが方広寺鐘銘事件です。
且元は豊臣方の重臣でしたが、同じ豊臣方の強硬派から疑いの目を向けられ、大坂城内で孤立していました。1614年10月1日、且元は弟の貞隆とともに大坂城を出て、茨木城(今の大阪府茨木市)へ退きます。この退去は、大坂冬の陣が起こるきっかけの一つになっています。
退去のあとの10月12日、大坂方が堺を攻めたため、且元は堺へ援軍を出しましたが、敗れています。翌1615年の大坂夏の陣では徳川方に加わったとされ、この戦いで豊臣家は滅亡しました。且元は、その後まもなく没しています。
読み違えやすい点
- 茨木城へ退いたことと、茨木城の城主だったことは別のことです。茨木城の城主には且元を挙げる説明が一般的ですが、弟の貞隆とする研究もあります。
参考資料
- 奈良県 歴史文化資源データベース「いかす・なら」「龍田城跡(龍田陣屋跡)」(関連する人物の概要:近江国出身・羽柴〈豊臣〉秀吉に仕えたこと・天正11年〈1583〉に秀吉と柴田勝家が戦った賤ケ岳の戦いで活躍した「七本槍」の一人・秀吉の死後に秀頼の後見役となったこと・慶長20年〈1615〉の大坂夏の陣で徳川方に組みしたとされ、その後まもなく没したこと)
- 京都市文化財保護課 報道発表資料「令和7年度京都市文化財保護審議会における答申」(美術工芸品3「金銅亀甲文透六角釣燈籠」の説明:豊国神社が慶長3年〈1598〉に没した豊臣秀吉を祀るために創建されたこと・慶長20年に豊臣家が滅亡したこと・豊臣家の家老・片桐且元〈1556-1615〉と弟の貞隆・且元が秀吉の没後に秀頼を支え、名代として豊国祭に参加するなど豊国神社にたびたび関わったこと・且元が天正度・慶長度の方広寺大仏殿建設の作事奉行を務めたこと。美術工芸品4の説明:慶長14年〈1609〉に中井正清が豊臣秀頼から方広寺大仏殿再建の棟梁に任じられ、作事奉行・片桐且元とともに事業を統率したこと・翌年6月12日に地鎮祭が行われたこと)
- 枚方市「枚方市内の文化財」(片埜神社本殿:残されている棟札によると、慶長7年〈1602〉に豊臣秀頼が片桐且元を総奉行として再建したこと)
- 文化庁 国指定文化財等データベース「片埜神社本殿」(読み「かたのじんじゃほんでん」・所在地 大阪府枚方市・慶長7年〈1602〉)
- 国立公文書館 デジタル展示「徳川家康―将軍家蔵書からみるその生涯―」「方広寺鐘銘事件」(方広寺は豊臣秀吉が天正14年〈1586〉に大仏を安置して建立した寺であること・地震や火災で崩壊した大仏殿などを秀頼が再建し、慶長19年〈1614〉に竣工したこと・豊臣側は片桐且元が駿府に向かい、大仏の開眼供養の日時などについて家康の了承を得つつ準備を進めていたこと・方広寺の鐘銘に「関東不吉之語」があるとして供養の延期を命じられたこと・「国家安康」「君臣豊楽」の文字が、徳川家を呪い豊臣家の繁栄を祝う内容と解釈されたこと)
- 柏原市文化財課「【広報コラム】「徳川家康と柏原」(2024・1)」(豊臣方の重臣だった片桐且元が、豊臣方の強硬派に疑いの目を向けられ、大坂冬の陣の前に大坂城を去っていたこと・豊臣家が滅びたのは大坂夏の陣であること)
- 茨木市「史料にみる茨木城」(木村健明。慶長19年〈1614〉10月1日に、大坂城内で孤立した片桐且元・貞隆兄弟が茨木城へ退去し、それが大坂冬の陣のきっかけの一つとなったこと・表5の10月12日の項:大坂方が堺を攻撃したため、且元が堺へ援軍を出すが敗北したこと・一般に茨木城主として且元が挙げられる一方、城主を貞隆とする研究もあること)
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訂正の記録
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- 2026年10月16日 生涯年表の1602年の項に、秀頼による方広寺の大仏の再建で総奉行を務めたと書いていました。資料欄の枚方市の解説によると、1602年に秀頼が且元を総奉行として再建したのは片埜神社(今の大阪府枚方市)の本殿なので、項目をそのように改めました。方広寺大仏殿での且元の役目は作事奉行です。
- 2026年10月16日 ページの題名とタグで、且元を「茨木城主」と書いていました。資料欄の茨木市の資料は、城主として且元が一般に挙げられる一方、弟の貞隆とする研究もあると記しているため、城主かどうかは決めず、1614年10月に茨木城へ退いたことを書く形に改めました。
- 2026年10月16日 要約・年表・注意の節(今の「読み違えやすい点」)で、且元が大坂冬の陣・夏の陣で徳川方に加わったと書いていました。資料欄の資料で確かめられる、1614年10月12日に大坂方に攻められた堺へ援軍を出したこと(茨木市)と、1615年の夏の陣で徳川方に加わったとされること(奈良県)を書く形に改めました。
- 2026年10月16日 要約・関係人物欄・「方広寺鐘銘事件」の節で、講和を優先する姿勢が大野治長ら強硬派の疑いを招いたこと、且元と大野治長が対立したこと、且元が家康との間を往復して弁明と妥協を試みたこと、且元が秀頼母子を徳川へ引き渡そうとしているという疑いが城内に広がったことを書いていました。資料欄の資料で確かめられる、豊臣方の強硬派から疑いの目を向けられ、大坂城内で孤立したことを書く形に改めました。
- 2026年10月16日 「方広寺鐘銘事件」の節で、家康の側が銘文を、徳川を分断し豊臣の繁栄を願うものとして問題にしたと書いていました。資料欄の国立公文書館の解説に合わせ、徳川家を呪い豊臣家の繁栄を祝う内容と解釈された、と改めました。
- 2026年10月16日 「大坂城の家老」の節(今の「秀頼の家老として」)で、且元が城内の政務・儀礼・普請・他大名との連絡を扱ったこと、交渉によって家を残そうとしたこと、城内で「徳川寄り」と見られたことを書いていました。資料欄の資料で支えられないため削り、この節は、豊国神社への関わりと寺社の工事という、資料で確かめられる仕事に絞りました。
- 2026年10月16日 要約・「方広寺鐘銘事件」の節・注意の節で、鐘銘事件が両家の緊張を決定的に高めたこと、両家の軍備と緊張がすでに積み重なっていたこと、退去が戦争を避ける最後の選択だった可能性、退去の理由に身の安全が重なったこと、江戸時代に豊臣滅亡の責任を負う人物像が強まったことを書いていました。資料欄の資料で支えられないため、削りました。
- 2026年10月16日 生涯年表の1570年代の項(近江の浅井氏が滅んだ後に秀吉の家臣団へ入ったとみられること)と、1600年の項(関ヶ原の後も大坂城で秀頼を支える重臣だったこと)を外しました。どちらも、その年の出来事として資料欄の資料で確かめられないためです。且元が秀吉に仕えたこと、秀吉の没後に秀頼の後見役となり、家老として支えたことは、本文に書いています。