片桐貞隆とは?
片桐貞隆は、片桐且元の弟です。慶長6年(1601)に大名となり、大和の小泉(今の奈良県大和郡山市)に陣屋を構え、そこに住んでいた農民を街道筋へ移したことが、小泉町のもとになりました。
小泉に陣屋を構えたことは「小泉へ」の章で、陣屋と城下のその後は「陣屋と町割り」の章で扱います。
且元の弟——秀吉に仕え、秀吉の没後は秀頼に仕えた
片桐貞隆は、片桐且元の弟で、永禄3年(1560)に近江で生まれた。21歳のときに豊臣秀吉に仕え、播磨で150石を与えられている。秀吉の死後、兄の且元は豊臣秀頼の後見役となって豊臣家の家老を務め、貞隆も秀頼に仕えた。
兄弟の名は、秀吉を祀る京都の豊国神社に伝わる釣燈籠(金銅亀甲文透六角釣燈籠)にも並んでいる。兄弟が慶長17年(1612)に寄進した燈籠で、火袋(火を入れる部分)の柱には「片桐東市正且元」「片桐主膳正貞隆」の名が刻まれている。
慶長19年(1614)10月、大坂城内で孤立した兄弟は、そろって大坂城を出て茨木城へ退いた。
領地と茨木での仕事——大名に列し、茨木城を本拠とした
慶長6年(1601)、42歳の貞隆は、大和の小泉の周辺を含めて1万5000石余を与えられ、大名に列した。本拠は、しばらくの間、摂津の茨木城に置かれた。
このころに貞隆が出した文書も残っている。慶長6年には箕面寺と勝尾寺の年貢について、慶長9年(1604)には梅林寺の地子(土地にかかる税)の免除について、貞隆が文書を出している。茨木城の城主には兄の且元を挙げる説明が一般的だが、城主を貞隆とする研究もある。茨木市の資料は、これらの文書に且元の名が見えないことも挙げている。
元和4年(1618)からは、これとは別に、茨木を含む摂津の天領(幕府直轄地)1万6000石余を預かっている。
小泉へ——陣屋を構え、農民を街道筋へ移した
貞隆は、知行地(実際に年貢を取る領地)を治める都合から、陣屋(城を持たない大名の役所)を構えるのにふさわしい土地として大和の小泉を選び、そこに陣屋を構えた。また、小泉に住んでいた農民を、街道筋へ屋敷替え(住まいをまとめて移すこと)させた。これが、小泉町ができるもとになった。
小泉という土地 中世から、館と城があった
小泉には中世から小泉氏という地侍がいて、館を構えていた。永禄4年(1561)、松永久秀の軍が小泉城に向かい、5月に城は落ちる。このとき城主をはじめ17人が切腹した。のちに豊臣秀長に仕えた羽田長門守がこの地に入り、外堀を造ったといわれる。この外堀は、古い小泉氏の館の跡を広げたものと思われている。
陣屋と町割り——没後に完成した内堀と、今に残る地割り
陣屋の地は台地の先端部で、急な崖に接している。地形から、陣屋の内側の区画は西側に屈曲があり、長辺150メートルの長方形の堀で囲まれていたと考えられている。東の崖下と西南の谷には、その堀の池が今も残る。陣屋を取り巻くこの内堀が完成したのは、貞隆の没後の延宝元年(1673)といわれ、費用は銀4貫目だったと伝わる。呼び名は陣屋だが、構えは城郭に近い規模を備えていた。
城下は、東を流れる富雄川に沿って、南北に北ノ町・中ノ町が並び、東西に本町が通る形に整えられ、その地割りは今日まで残っている。北ノ町からは大手道が陣屋の内へ通じ、調練場は陣屋の外に置かれた。幕末の姿を復元した地図では、外堀が陣屋を取り巻き、その内側に家中屋敷、さらに内堀の内側に藩主の居館があった。
大手門と桝形 東西80メートルを、三度折り曲げた
大手門は北ノ町の南端に突き出す形で開き、その内側は東西80メートルほどの区域が3回屈曲する桝形(門の内で道を折り、進入を鈍らせる造り)になっていた。石垣を積まず、塀で囲う造りだったとみられる。
残った門 一つが、小泉神社の山門になった
陣屋には大手門のほかに北・西北・南の3か所に門があった。そのうちの一つが、現在は小泉神社の山門として残っている。冠木(門柱をつなぐ横木)の上に切妻の屋根をのせ、控柱にも小さな屋根を付けた形式で、高麗門と呼ばれる。
亡父のための寺——子の貞昌が建てた慈光院
寛永4年(1627)10月、貞隆は没した。子の片桐貞昌が遺領を継ぎ、小泉藩の2代目藩主となる。寛文3年(1663)、貞昌は亡父貞隆の菩提(死後の冥福)のために、慈光院という禅寺を建てた。
書院と茶室 二つとも、国の重要文化財
書院はもと方丈といい、寛文3年の建立である。間口14メートル、奥行10メートルほどの入母屋造(屋根の形式の一つ)・茅葺で、開放的で簡素な造りになっており、庭を眺めるのに都合のよい構えを取る。茶室は寛文11年(1671)に書院の東北隅へ付け足された。書院と茶室は、どちらも国の重要文化財に指定されている。
庭と借景 大和の東に連なる山並みを、庭に取り込んだ
慈光院の庭園は、寛文3年の創建にあわせて作られた枯山水(水を使わず石と砂で山水を表す庭)である。刈り込んだ生垣越しに大和の東に連なる山並みを取り込む借景(外の景色を庭の一部として扱う手法)の庭として知られ、大和平野を隔てた遠くの山の四季を室内から直接眺められる点に特徴がある。
貞昌と茶の湯 石州流を興したのは、子の貞昌
貞昌は茶道に通じて一派を起こし、石州流茶道の開祖として知られる。石州流を興したのは、父の貞隆ではなく、子の貞昌である。
片桐貞隆の疑問に答える
兄の且元とは、別の家だったの?
家の単位としては、別々の家として扱われていたとみる研究がある。茨木市の資料(木村健明)は、秀吉が且元と貞隆のそれぞれに書状を出していたことなどから、兄弟は別々の家と捉えられていたと考えている。ここでいう「家」は住まいのことではなく、主君から別々に扱われる家の単位を指す。兄弟はどちらも秀頼に仕え、1614年には一緒に大坂城を出ている。
参考にした資料
- 大和郡山市「片桐貞隆」(人物紹介。片桐且元の弟で、永禄3年〈1560〉に近江で生まれたこと〈1560~1627〉・21歳で秀吉に仕え、播磨国で150石を与えられたこと・慶長6年〈1601〉に42歳で万石の列に加わったこと・小泉の地に陣屋を構えたこと・元和4年〈1618〉から別に、茨木を含む摂津国の天領1万6000石余を預かったこと・寛永4年〈1627〉10月に没したこと)
- 大和郡山市「歴史年表」(慶長19年〈1614〉10月に片桐且元・貞隆が大坂城を退去し、茨木に入ったこと・寛永4年〈1627〉10月に貞隆が没し、貞昌が遺領を継いで小泉藩2代目藩主となったこと・寛文3年〈1663〉に貞昌が父貞隆の菩提のために慈光院を創建したこと・延宝元年〈1673〉に小泉陣屋の内堀が完成したこと)
- 大和郡山市「小泉城」(慶長6年に片桐且元の弟貞隆が小泉周辺を含めて1万5000石余を与えられて大名に列し、しばらく茨木城に本拠を置いたこと・知行地支配の関係上、陣屋構築にふさわしい小泉の地を選び、住んでいた農民を街道筋に屋敷替えさせ、これが小泉町を形成するもとになったこと・陣屋の地が台地の先端部の急崖の地で、内郭が長辺150メートルの長方形の堀で囲まれていたと考えられ、東の崖下と西南の谷に堀池が残ること・陣屋をとりまくこの内堀が延宝元年に完成したといわれ、費用が銀4貫目だったこと・陣屋が城郭としての構えを備えていたこと・北ノ町・中ノ町・本町の町割りが今日の地割りに残ること・大手道と調練場・幕末の小泉城地復元地図・大手門の桝形と塀囲い・小泉神社の山門として残る門と高麗門の形式・中世の小泉氏と永禄4年〈1561〉の落城と17人の切腹・豊臣秀長に仕えた羽田長門守が造ったといわれ、小泉氏の館跡を拡大したものと思われる外堀)
- 大和郡山市「国3 慈光院」(寛文3年に小泉藩主片桐貞昌が亡父貞隆の菩提のため建立した禅寺であること・書院と茶室が国の重要文化財であること・書院の規模と造り・寛文11年の茶室付設・貞昌が茶道に通じて一派を起こし、石州流茶道の開祖として知られること)
- 大和郡山市「国36・37 慈光院庭園」(庭園が寛文3年の創建時に作られたこと・大和東山の山並みを借景とする枯山水であること)
- 京都市文化財保護課 報道発表資料「令和7年度京都市文化財保護審議会における答申」(美術工芸品3「金銅亀甲文透六角釣燈籠」の説明:豊国神社が慶長3年〈1598〉に没した豊臣秀吉を祀る神社であること・この燈籠が豊国神社に伝わること・火袋の柱に「片桐東市正且元」「片桐主膳正貞隆」の名が刻まれ、且元とその弟・貞隆〈1560-1627〉が寄進したこと・且元が豊臣家の家老で、秀吉の没後は秀頼を支えたこと・貞隆も秀吉の没後は秀頼に仕えたこと・且元が天正度・慶長度の方広寺大仏殿建設の作事奉行を務めたこと。美術工芸品4の説明の中で、美術工芸品3の燈籠を、慶長17年〈1612〉に片桐且元・貞隆兄弟が寄進した「金銅亀甲文透六角釣燈籠」と記していること)
- 奈良県 歴史文化資源データベース「いかす・なら」「龍田城跡(龍田陣屋跡)」(片桐且元が羽柴〈豊臣〉秀吉に仕え、秀吉の死後に秀頼の後見役となったこと)
- 茨木市「史料にみる茨木城」(木村健明。貞隆が慶長6年〈1601〉に箕面寺と勝尾寺の年貢について、慶長9年〈1604〉に梅林寺の地子の免除について文書を出したこと・一般に茨木城主として且元が挙げられる一方、城主を貞隆とする研究もあり、これらの文書に且元の名が見えないこと・秀吉が且元と貞隆それぞれに書簡を出しており、兄弟は別々の家と捉えられていたと考えられること・慶長19年〈1614〉10月1日に、大坂城内で孤立した且元・貞隆兄弟が茨木城へ退去したこと)
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訂正の記録
記事の理解に関わる訂正をしたときは、日付と内容をここに残しています(誤りの訂正について)。
- 2026年10月16日 「且元の弟」の節(見出しを含む)で、貞隆の生没年は細かい年まではたどれないと書いていました。資料欄の大和郡山市と京都市の資料が、貞隆を1560年生まれ・1627年没と記しているので、生没年を書く形に改めました。
- 2026年10月16日 「且元の弟」の節・よくある疑問・カードで、兄の且元を秀頼の「傅役」とし、大坂城の政務と対外交渉を担ったと書いていました。資料欄の資料で確かめられる、秀頼の後見役となり、豊臣家の家老を務めたことに改めました。
- 2026年10月16日 「亡父のための寺」の節とよくある疑問で、貞昌が父の菩提寺に書院と茶室を備え、庭を作らせたことを茶の湯への関心と結びつけ、父子は名が近いためまとめて語られやすいと書いていました。資料欄の資料で支えられないため削り、慈光院の建立と、貞昌が石州流茶道の開祖として知られることを書く形に改めました。
- 2026年10月16日 「茨木城に入る」の節(今の「領地と茨木での仕事」)と「小泉へ」の節・よくある疑問・カードで、領地の中心が小泉の周辺だったこと、本拠と領地が離れた状態を解くために小泉へ役所を移したこと、小泉を崖に守られた土地として選んだこと、中世の小泉氏の館の跡を含む形で陣屋が構えられたこと、小泉が郡山城から離れた位置にあることを書いていました。資料欄の資料で確かめられる、領地が小泉の周辺を含んでいたこと、知行地を治める都合から、陣屋を構えるのにふさわしい土地として小泉を選んだこと、外堀が館の跡を広げたものと思われていることに改め、郡山城との位置の記述は削りました。
- 2026年10月16日 要約の年表で、「小泉へ移る(1601年以降)」「陣屋と町割り(年不詳)」として、堀で囲む陣屋と町の地割りを貞隆の代のことのように書いていました。また「小泉へ」の節と屋敷替えのカードで、農民を移して空いた土地に陣屋を構えたこと、その移動が町の骨格を決めたことを書いていました。年表には、資料欄の資料で確かめられる年の出来事だけを並べました。陣屋を取り巻く内堀の完成が貞隆の没後の延宝元年であることは、「陣屋と町割り」の節に書きました。屋敷替えは、小泉町のもとになったことを書く形にしました。