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片桐貞隆かたぎりさだたか

片桐貞隆とは?

片桐貞隆は、片桐且元かつもとの弟です。慶長6年(1601)に大名となり、大和の小泉(今の奈良県大和郡山市)に陣屋を構え、そこに住んでいた農民を街道筋へ移したことが、小泉町のもとになりました。

片桐且元の弟として、近江に生まれます。
大和の小泉の周辺を含む1万5000石余を与えられ、大名に列します。本拠は、しばらく摂津の茨木城(今の大阪府茨木市)に置かれました。
10月、兄の且元とともに大坂城を出て、茨木城へ退きます。
茨木を含む摂津の天領(幕府直轄地)1万6000石余を預かります。
10月に没し、子の貞昌が遺領を継ぎます。

小泉に陣屋を構えたことは「小泉へ」の章で、陣屋と城下のその後は「陣屋と町割り」の章で扱います。

且元の弟——秀吉に仕え、秀吉の没後は秀頼に仕えた

片桐貞隆は、片桐且元の弟で、永禄3年(1560)に近江で生まれた。21歳のときに豊臣秀吉とよとみ ひでよしに仕え、播磨で150石を与えられている。秀吉の死後、兄の且元は豊臣秀頼とよとみ ひでよりの後見役となって豊臣家の家老を務め、貞隆も秀頼に仕えた。

兄弟の名は、秀吉を祀る京都の豊国神社に伝わる釣燈籠(金銅亀甲文透六角釣燈籠)にも並んでいる。兄弟が慶長17年(1612)に寄進した燈籠で、火袋(火を入れる部分)の柱には「片桐東市正且元」「片桐主膳正貞隆」の名が刻まれている。

慶長19年(1614)10月、大坂城内で孤立した兄弟は、そろって大坂城を出て茨木城へ退いた。

領地と茨木での仕事——大名に列し、茨木城を本拠とした

慶長6年(1601)、42歳の貞隆は、大和の小泉の周辺を含めて1万5000石余を与えられ、大名に列した。本拠は、しばらくの間、摂津の茨木城に置かれた。

このころに貞隆が出した文書も残っている。慶長6年には箕面寺と勝尾寺の年貢について、慶長9年(1604)には梅林寺の地子じし(土地にかかる税)の免除について、貞隆が文書を出している。茨木城の城主には兄の且元を挙げる説明が一般的だが、城主を貞隆とする研究もある。茨木市の資料は、これらの文書に且元の名が見えないことも挙げている。

元和4年(1618)からは、これとは別に、茨木を含む摂津の天領(幕府直轄地)1万6000石余を預かっている。

小泉へ——陣屋を構え、農民を街道筋へ移した

貞隆は、知行地ちぎょうち(実際に年貢を取る領地)を治める都合から、陣屋じんや(城を持たない大名の役所)を構えるのにふさわしい土地として大和の小泉を選び、そこに陣屋を構えた。また、小泉に住んでいた農民を、街道筋へ屋敷替え(住まいをまとめて移すこと)させた。これが、小泉町ができるもとになった。

小泉という土地 中世から、館と城があった

小泉には中世から小泉氏という地侍がいて、館を構えていた。永禄4年(1561)、松永久秀の軍が小泉城に向かい、5月に城は落ちる。このとき城主をはじめ17人が切腹した。のちに豊臣秀長に仕えた羽田長門守がこの地に入り、外堀を造ったといわれる。この外堀は、古い小泉氏の館の跡を広げたものと思われている。

陣屋と町割り——没後に完成した内堀と、今に残る地割り

陣屋の地は台地の先端部で、急な崖に接している。地形から、陣屋の内側の区画は西側に屈曲があり、長辺150メートルの長方形の堀で囲まれていたと考えられている。東の崖下と西南の谷には、その堀の池が今も残る。陣屋を取り巻くこの内堀が完成したのは、貞隆の没後の延宝元年(1673)といわれ、費用は銀4貫目だったと伝わる。呼び名は陣屋だが、構えは城郭に近い規模を備えていた。

城下は、東を流れる富雄川に沿って、南北に北ノ町・中ノ町が並び、東西に本町が通る形に整えられ、その地割りは今日まで残っている。北ノ町からは大手道が陣屋の内へ通じ、調練場は陣屋の外に置かれた。幕末の姿を復元した地図では、外堀が陣屋を取り巻き、その内側に家中屋敷、さらに内堀の内側に藩主の居館があった。

大手門と桝形 東西80メートルを、三度折り曲げた

大手門は北ノ町の南端に突き出す形で開き、その内側は東西80メートルほどの区域が3回屈曲する桝形ますがた(門の内で道を折り、進入を鈍らせる造り)になっていた。石垣を積まず、塀で囲う造りだったとみられる。

残った門 一つが、小泉神社の山門になった

陣屋には大手門のほかに北・西北・南の3か所に門があった。そのうちの一つが、現在は小泉神社の山門として残っている。冠木かぶき(門柱をつなぐ横木)の上に切妻の屋根をのせ、控柱にも小さな屋根を付けた形式で、高麗門と呼ばれる。

亡父のための寺——子の貞昌が建てた慈光院

寛永4年(1627)10月、貞隆は没した。子の片桐貞昌が遺領を継ぎ、小泉藩の2代目藩主となる。寛文3年(1663)、貞昌は亡父貞隆の菩提ぼだい(死後の冥福)のために、慈光院という禅寺を建てた。

書院と茶室 二つとも、国の重要文化財

書院はもと方丈といい、寛文3年の建立である。間口14メートル、奥行10メートルほどの入母屋造いりもやづくり(屋根の形式の一つ)・茅葺で、開放的で簡素な造りになっており、庭を眺めるのに都合のよい構えを取る。茶室は寛文11年(1671)に書院の東北隅へ付け足された。書院と茶室は、どちらも国の重要文化財に指定されている。

庭と借景 大和の東に連なる山並みを、庭に取り込んだ

慈光院の庭園は、寛文3年の創建にあわせて作られた枯山水かれさんすい(水を使わず石と砂で山水を表す庭)である。刈り込んだ生垣越しに大和の東に連なる山並みを取り込む借景しゃっけい(外の景色を庭の一部として扱う手法)の庭として知られ、大和平野を隔てた遠くの山の四季を室内から直接眺められる点に特徴がある。

貞昌と茶の湯 石州流を興したのは、子の貞昌

貞昌は茶道に通じて一派を起こし、石州流茶道の開祖として知られる。石州流を興したのは、父の貞隆ではなく、子の貞昌である。

片桐貞隆の疑問に答える

兄の且元とは、別の家だったの?

家の単位としては、別々の家として扱われていたとみる研究がある。茨木市の資料(木村健明)は、秀吉が且元と貞隆のそれぞれに書状を出していたことなどから、兄弟は別々の家と捉えられていたと考えている。ここでいう「家」は住まいのことではなく、主君から別々に扱われる家の単位を指す。兄弟はどちらも秀頼に仕え、1614年には一緒に大坂城を出ている。

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参考にした資料

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