1556年 / 織田家の家督をめぐる内戦

稲生の戦い

父・信秀の死後、信長と弟・織田信行の対立は、家臣団を二つに分ける戦いになりました。
稲生での勝利は、信長が兄弟争いに勝っただけではありません。自分に従う家臣団をつくり、尾張の外へ向かう前提を整えた転換点です。

織田信行柴田勝家林秀貞1556年
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なぜ兄弟が争うことになったのか

信秀の死後、信長が弾正忠家を継ぎました。しかし、尾張全体を支配する立場が一人に決まっていたわけではありません。信長の弟・信行を推す家臣もおり、家中の主導権をめぐる緊張が続きます。

信長側

家督を継いだ信長は、那古野・清洲を足場に自らの家臣団をまとめようとします。外の敵に向かう前に、家の中の命令系統を固める必要がありました。

信行側

信行は末森城を拠点とし、柴田勝家や林秀貞ら有力家臣の支持を受けます。争いは兄弟だけの対立ではなく、織田家の有力者がどちらにつくかという問題でした。

母・土田御前

戦いの後、土田御前は兄弟の間を取り持ったと伝えられます。家中が完全に割れたままでは、信長側にとっても不利だったことが分かります。

土田御前を詳しく見る

稲生の戦いまでの流れ

1554〜1555年
信長が清洲を本拠にする

清洲城を押さえた信長は、尾張南部の政治の中心を手に入れます。ただし、弾正忠家の内部対立は残っていました。

1556年夏
信行方が兵を挙げる

柴田勝家・林秀貞らが信行を支持し、信長に対する動きが表面化します。信長は名塚砦を足場に対抗しました。

1556年8月
稲生で信長が勝つ

名塚砦をめぐる攻防の後、信長は稲生で信行方と戦い、勝利します。信行方は末森城などへ退きました。

その後
赦免と、再び起こる対立

信長は信行とその側近をいったん赦します。しかし家督をめぐる問題は消えず、信行はのちに再び信長と対立します。

この勝利で、何が変わったのか

家督争いの主導権信長が軍事的に優位を示し、弾正忠家の中心が信長であることを家中に示しました。
家臣団の組み替え柴田勝家・林秀貞らは後に信長のもとで活動します。信長は敵味方を固定せず、家臣団を再編していきます。
尾張統一への前提兄弟間の争いを抑えたことで、岩倉織田氏や今川氏など、家の外にある勢力へ向き合う条件が整います。

稲生の戦いは、桶狭間の前にある「内側の桶狭間」です。 ここで信長が家中の主導権を失っていれば、その後に岩倉城を攻め、今川軍と戦う余地はありませんでした。信長の台頭を、最初から全国を見据えた話にせず、まず自分の家をまとめる戦いとして見ると流れがつかみやすくなります。

信行をめぐる人物をどう見る?

織田信行

信長の弟で、信勝とも呼ばれます。信長に対抗できるだけの支持を家中に持っていたこと自体が、信秀死後の織田家の不安定さを示します。

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柴田勝家

当初は信行方に立ちますが、後に信長の重臣となります。稲生は勝家が信長の家臣へ変わる前史でもあります。

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林秀貞

信長を支えた有力家臣の一人でありながら、信行を支持した時期がありました。初期の織田家では、家臣の立場も固定されていませんでした。

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ここだけ覚える

  • 稲生の戦いは、信長と弟・信行の家督争いが家臣団を巻き込んだ1556年の内戦である。
  • 柴田勝家・林秀貞らが信行方に立ち、信長は勝利して家中の主導権を強めた。
  • この勝利が、岩倉・今川など尾張の外の勢力に向き合う前提になった。

稲生の戦いから、どこへ進む?

参考にした資料

稲生の戦いの兵数・戦闘の細部には資料ごとに表現差があります。信行方に柴田勝家・林秀貞らが加わったこと、信長の勝利が家中の主導権に与えた意味を中心に整理しました。