人物ページ / 信長の弟、家督争いの中心にいた人物

織田信行(信勝)

織田信行は、信長の弟です。父・信秀の死後、柴田勝家や林秀貞らの支持を受けて信長に対抗し、1556年の稲生の戦いへ進みました。
信行を見ると、信長の尾張統一が外敵を倒す前に、織田家自身の分裂を越える過程だったことが分かります。

織田信長の弟末森城稲生の戦い1558年没
このページを読む順番

信行を最初にどう覚える?

信長の弟

信行は、信秀の子として信長と同じ弾正忠家に生まれました。信長の家督継承に対して、別の選択肢になり得た人物です。

末森城の側

信行は末森城を拠点にしたとされます。清洲を押さえた信長に対し、尾張南東側にも別の中心があったことを示します。

家臣に支持された弟

柴田勝家・林秀貞ら有力家臣が信行方に立ちました。信長と信行の対立は、兄弟の感情だけでは説明できません。

尾張統一の前提をつくった人物

信長は信行との対立を越えて初めて、岩倉・今川・犬山など、家の外の勢力と本格的に向き合えました。

信秀の死後、織田家は一つにまとまっていなかった

信長の父・信秀は、那古野・古渡などを拠点に尾張南部で力を伸ばしました。しかし、信秀の死後に「次は信長」と家中が迷いなくまとまったわけではありません。尾張には複数の織田家が並び、弾正忠家の中にも有力家臣の思惑がありました。

信行は、信長を倒すためだけに現れた人物ではありません。信秀の後を誰が担うのかという不安定な時期に、信長とは別の軸として支持された弟です。この位置を押さえると、信長の若いころの評価や逸話より、尾張の現実的な力関係が見えてきます。

織田信秀。信長・信行が受け継いだ弾正忠家の基盤を尾張南部で広げました。
織田信長。清洲を重要な本拠にし、家中の主導権を固めようとします。
支持者柴田勝家、林秀貞ら。信行を支持した有力家臣の存在が、家中の分裂を示します。
土田御前は、稲生の戦いの後に兄弟の間を取り持ったと伝えられます。

信長との対立は、二度に分けて見る

1554〜1555年
信長が清洲を押さえる

信長は尾張南部の政治の中心に入ります。一方で、弾正忠家の内部では信行を支持する動きが残っていました。

1556年
稲生の戦い

信行方は柴田勝家・林秀貞らを得て信長と戦います。信長が勝ち、信行方は末森城などへ退きます。

戦後
いったん赦される

信行は母・土田御前の取りなしもあって赦されたと伝えられます。信長は家中の有力者を一度に失うことを避けました。

1558年
再度の決裂と死

信行は再び信長と対立し、清洲で命を落としたと伝えられます。以後、信長は弾正忠家の主導権をより確かなものにします。

「信行が敗れた」だけでは終わらない

信長の強さだけの話ではない

信行を支持する家臣がいたことは、信長が最初から家中を完全に支配していなかったことを示します。

家臣団が組み替わる

信行方だった柴田勝家・林秀貞らは、後に信長のもとで活動します。信長は対立を越えて家臣団を使い直しました。

尾張の外へ向かう条件ができる

家督争いが収束することで、信長は岩倉織田氏・今川氏・犬山の信清などとの対立へ力を向けられるようになります。

信行のページは、信長の「残酷さ」を語るためだけのページではありません。 信長がなぜ尾張で主導権を取れたのか、また柴田勝家のような重臣がどうして信長のもとへ移ったのかを理解するための入口です。

ここだけ覚える

  • 織田信行は信長の弟で、信秀の死後の家督争いで信長に対抗した。
  • 柴田勝家・林秀貞らの支持を受け、1556年の稲生の戦いで信長と戦った。
  • いったん赦された後に再び信長と対立し、1558年に命を落としたと伝えられる。
  • 信行との対立を越えたことが、信長の尾張統一の前提になった。

織田信行から、どこへ進む?

参考にした資料

信行の生年や稲生の戦いの細かな経過には資料による表現差があります。このページでは、信長の弟として支持者を持ったこと、1556年の戦い、赦免後の再度の決裂という流れを中心に整理しました。