事件ページ / 1554年ごろ

甲相駿三国同盟

甲斐の武田氏、相模の北条氏、駿河の今川氏が結んだ同盟です。義元にとっては駿河の東側を固め、三河・尾張へ力を向ける条件を整える重要な外交でした。

今川・武田・北条 婚姻同盟 1568年に崩壊
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それぞれの正面を守る

三者は何を得たのか

今川義元

武田・北条との対立を抑え、駿河の背後を安定させます。遠江・三河、さらに尾張の方向へ力を向けやすくなりました。

武田信玄

駿河・相模との関係を安定させ、信濃や関東方面の課題へ対応しやすくなりました。

北条氏康

甲斐・駿河との緊張を緩和し、関東での勢力争いに集中する条件を得ました。

三者は同じ目的を持っていたわけではありません。互いの背後を脅かさず、それぞれが正面の課題へ力を振り向けるための外交でした。

婚姻で結ぶ三家

領国の境を、婚姻関係で結び直す

同盟は、三家の婚姻関係によって支えられました。義元の娘は武田義信へ、武田方の娘は北条氏政へ、北条氏康の娘・早川殿は今川氏真へ嫁ぎます。

今川と武田

義元の娘が武田義信へ嫁ぎ、駿河と甲斐の関係を支えました。

武田と北条

武田方の娘が北条氏政へ嫁ぎ、甲斐と相模の関係を結びました。

北条と今川

氏康の娘・早川殿が今川氏真へ嫁ぎ、相模と駿河をつなぎました。

桶狭間後の東海

義元の死後、なぜ崩れたか

1560年に義元が桶狭間で戦死すると、今川氏の力は大きく揺らぎます。今川氏真の時代、武田信玄は1568年に駿河へ侵攻し、北条氏は今川方を支援しました。ここで三国同盟は崩れ、駿河は武田・北条・徳川が争う地域へ変わりました。

参考にした資料