三者は何を得たのか
今川義元
武田・北条との対立を抑え、駿河の背後を安定させます。遠江・三河、さらに尾張の方向へ力を向けやすくなりました。
武田信玄
駿河・相模との関係を安定させ、信濃や関東方面の課題へ対応しやすくなりました。
北条氏康
甲斐・駿河との緊張を緩和し、関東での勢力争いに集中する条件を得ました。
三者は同じ目的を持っていたわけではありません。互いの背後を脅かさず、それぞれが正面の課題へ力を振り向けるための外交でした。
領国の境を、婚姻関係で結び直す
同盟は、三家の婚姻関係によって支えられました。義元の娘は武田義信へ、武田方の娘は北条氏政へ、北条氏康の娘・早川殿は今川氏真へ嫁ぎます。
今川と武田
義元の娘が武田義信へ嫁ぎ、駿河と甲斐の関係を支えました。
武田と北条
武田方の娘が北条氏政へ嫁ぎ、甲斐と相模の関係を結びました。
北条と今川
氏康の娘・早川殿が今川氏真へ嫁ぎ、相模と駿河をつなぎました。
義元の死後、なぜ崩れたか
1560年に義元が桶狭間で戦死すると、今川氏の力は大きく揺らぎます。今川氏真の時代、武田信玄は1568年に駿河へ侵攻し、北条氏は今川方を支援しました。ここで三国同盟は崩れ、駿河は武田・北条・徳川が争う地域へ変わりました。
甲相駿三国同盟から、次に読む
三者の人物と、同盟が崩れた後の東海をつなげると、義元の外交と今川家の危機を一続きで読めます。