事件ページ / 第一次の敗北から二年、織田方が大船と砲撃で海上封鎖を立て直した再戦

第二次木津川口の戦い

第二次木津川口の戦いは、天正6年11月6日(1578年12月4日)、大坂の石山本願寺へ補給しようとする毛利方船団を、九鬼嘉隆が率いる織田方の大船団が木津川口で退けた海戦です。1576年の第一次では、毛利・小早川・村上系の大船団が織田方の封鎖を破り、本願寺へ兵糧を届けました。信長はその敗北を受け、嘉隆に大型の大安宅船を造らせます。九鬼方6艘と滝川一益側の1艘を合わせた7艘と整理される大船は、火器への防御と大鉄砲を備え、1578年夏から大坂湾の海上通路を封鎖しました。11月、約600艘とされる毛利方船団が攻撃すると、嘉隆は敵を近くへ引きつけ、主力船へ砲撃を集中して撤退させます。ただし「7艘だけで600艘を全滅させた新兵器の勝利」と読むのは単純です。大船には小船や沿岸部隊が付き、目標は敵船の撃滅ではなく補給を通さないことでした。また石山本願寺が講和したのは1580年であり、海戦だけで即時に落ちたわけでもありません。第一次と第二次を続けて見ると、制海権が船体、火力、封鎖位置、情報、港、政治情勢の組み直しで変わったことが分かります。

1578年11月6日(旧暦) 織田方が海上封鎖を維持 九鬼方6艘+滝川方1艘 石山本願寺の補給路を圧迫

第二次木津川口の戦いの要点

1576年、毛利方は織田方を破って石山本願寺へ兵糧を届けました。信長は同じ方法で再び敗れないため、志摩の水軍大名・九鬼嘉隆へ大型船を造らせます。

1578年、嘉隆は大船を木津川口の封鎖線に置きました。毛利方の約600艘が接近すると、敵の主力船を大鉄砲で攻撃して退け、本願寺への補給を阻みます。

勝敗を決めたのは「鉄板一枚」ではなく、二年間の造船、砲撃、封鎖線、小船との連携です。この後、本願寺側は荒木村重や宇喜多直家をめぐる情勢変化も重なり、1580年に信長と講和しました。

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1576年の敗北

第一次木津川口で毛利方が海上封鎖を破り、兵糧搬入に成功。織田方の船団構成と防御の弱点が表れました。

二年間の再設計

信長は九鬼嘉隆へ大船建造を命じ、火攻めへの防御、大鉄砲、封鎖の核になる船を準備させました。

1578年の海戦

木津川口へ進む毛利方船団を、織田方が大船からの集中砲撃で退けます。今回は兵糧を通さない側が目的を達成しました。

戦争全体への影響

本願寺への海上補給が難しくなり、周辺の反信長勢力も崩れます。ただし講和まで約一年半あり、単独の決着ではありません。

関係人物と勢力

織田信長石山本願寺を包囲した織田家当主。第一次の敗北後、嘉隆らへ大型船を建造させ、海上封鎖を再編しました。
九鬼嘉隆志摩の水軍大名。大船6艘を建造したとする整理があり、第二次では大船団の中心指揮官を務めました。
滝川一益嘉隆を信長へつないだとされる重臣。九鬼方とは別に白い大船1艘を建造させ、合計7艘の構成に加わりました。
毛利輝元石山本願寺を支援した毛利家当主。瀬戸内の船団を大坂へ送り、補給路の再開を目指しました。
小早川隆景山陽・瀬戸内方面を担う毛利両川。小早川系警固衆と港湾網は、毛利方の海上輸送を支えました。
乃美宗勝小早川警固衆の主要指揮官。第一次の補給成功に関わり、第二次では織田方の新しい封鎖に直面した毛利方水軍の一人です。
村上氏系警固衆能島・因島・来島など瀬戸内の海上勢力。毛利方船団の航海・戦闘・輸送を支えました。
本願寺顕如石山本願寺の宗主。織田方の包囲へ抵抗し、毛利氏などへ兵糧・武器・援軍を求めました。
雑賀・淡輪など本願寺方水軍伊勢から大坂へ進む九鬼方の大船を沿岸で迎撃しましたが、大船の砲撃に押し返されました。
荒木村重1578年秋に信長へ反旗を翻して本願寺側へ接近。海戦後、有岡城をめぐる戦いが本願寺周辺の情勢をさらに動かしました。
宇喜多直家当初は毛利方でしたが1579年に織田方へ転じ、毛利氏が東へ援助を送る陸上経路を圧迫しました。

ざっくり年表

1570
石山本願寺と信長の戦いが始まり、約十年続く石山合戦へ入ります。
1576.7
第一次木津川口の戦い。毛利方が織田方船団を破り、本願寺へ兵糧を搬入します。
1576-78
信長が九鬼嘉隆らへ大型の大安宅船を造らせ、海上封鎖を作り直します。
1578.6末
大船団が伊勢方面から大坂湾へ向けて出港。本願寺方の沿岸船団を砲撃で退けながら進みます。
1578.7中旬
大船7艘が大坂近くへ入り、木津川口へ通じる海上航路を封鎖します。
1578.秋
信長が堺・住吉方面で大船を確認し、嘉隆らを賞したと伝わります。
1578.10
荒木村重が信長へ反旗を翻し、有岡城を中心に抗戦します。
1578.11.6
第二次木津川口の戦い。約600艘とされる毛利方船団を、嘉隆の大船団が砲撃で退けます。
1579.10
有岡城が開城。宇喜多直家も織田方へ転じ、毛利氏から本願寺への援助がさらに難しくなります。
1580.1
三木城が開城し、毛利方が東側の反信長勢力へ援助を送る戦線が後退します。
1580.4
顕如と信長の講和が成立。顕如は大坂を退去します。
1580.8
抗戦を続けた教如も退去し、石山本願寺をめぐる戦いが終わります。

出発点は、1576年の補給成功

第一次木津川口では、毛利方の大船団が瀬戸内から大坂湾へ入り、織田方の警固船を破りました。兵糧と弾薬は石山本願寺へ届けられ、本願寺は抵抗を続けることができました。

織田方の問題は、船が少なかったことだけではありません。毛利方は戦闘船と輸送船を組み合わせ、火攻めで封鎖線を崩し、その隙に荷を通しました。織田方が同じ種類の船を増やすだけでは、再び大船団に押し切られる可能性があります。

そこで信長は、敵船を追い回すより、河口の入口に留まって火攻めへ耐え、接近する主力へ大火力を集中できる船を準備しました。第二次は第一次と別の海戦であると同時に、第一次の詳細な反省から生まれた再戦です。

大船建造――二年間で何を変えたのか

信長の命を受けた九鬼嘉隆は、伊勢・志摩の船大工、木材、港、乗員を使って大型の大安宅船を整えました。建造は船体を大きくするだけではなく、鉄砲・大鉄砲を載せ、兵を守り、海上に長く留まれる構造と運用を準備する仕事です。

船体安宅船をさらに大型化し、高い板囲いと櫓を持つ「動く砦」にしました。
防御火矢・鉄砲・焙烙などへ耐えるため、外板や重要部分に鉄板を張ったと考えられます。
火器大鉄砲・大砲と多数の鉄砲を載せ、近づく敵の主力船へ集中射撃できるようにしました。
乗員漕ぎ手、鉄砲衆、操船役、指揮官、船大工など、多数の専門要員を同じ船で動かします。
小船偵察、連絡、周囲の警戒、浅瀬での戦闘を担います。大型船単独では封鎖を維持できません。
建造・修理・兵糧補給に伊勢・志摩の港湾網が必要でした。海戦前の二年間も戦争の一部です。

六艘か七艘か――数え方を分ける

第二次木津川口の大船は、資料によって「6艘」「7艘」と紹介されます。この差は、九鬼嘉隆が建造した船だけを数えるか、滝川一益側の船を含めた織田方大船団を数えるかで整理できます。

九鬼方6艘

国土交通省の解説などは、嘉隆が巨大な鉄張り船6隻を建造したとまとめます。

滝川方1艘

『信長公記』系の整理では、滝川一益側が別の白船1艘を担当しました。

合計7艘

興正寺の解説は、嘉隆の6艘と別の家臣の大船を合わせ、7艘が大坂沖へ向かったとします。

戦場の全船数

大船7艘以外にも小船・警固船・沿岸部隊がいました。織田方全体が7艘だけだった意味ではありません。

「鉄甲船」は、全面鉄製の戦艦だった?

大船は一般に「鉄甲船」と呼ばれます。奈良・興福寺の僧らが記した『多聞院日記』には、鉄砲の貫通を防ぐための「鉄の船」と理解される記述があり、横七間、長さ十二~十三間ほどの大きさも伝えられます。

ただし現物や設計図は残らず、鉄板の厚さ、張った範囲、すべての船が同じ構造だったかは確定しません。木造の船体へ鉄板を部分的または広範囲に張った可能性は高くても、船底まで厚い鉄で覆う近代的な装甲艦と同じではありません。

  • 「世界初の鉄甲艦」は紹介上の呼び名で、近代軍艦との直接比較には注意する
  • 鉄板は火攻めと鉄砲への対策の一部で、勝因のすべてではない
  • 大船の高さと板囲いだけでも、矢・小火器への防御力は高まる
  • 重量が増えれば速度・旋回・浅瀬への進入には不利が出る
  • 封鎖線に留まる運用だから、大船の長所を生かしやすかった

伊勢から大坂へ――到着するまでにも戦いがあった

完成した大船は1578年6月末、伊勢方面から大坂湾へ向かいました。巨大船を戦場へ持っていくには、天候と潮を読み、沿岸の港で水や食料を補い、狭い海域を通過させなければなりません。

和泉・紀伊沿岸では、本願寺方の雑賀・淡輪などの小船が矢や鉄砲で大船を攻撃しました。嘉隆方は大船から鉄砲・大鉄砲を放ち、小船団を退けて航路を開きます。第二次木津川口の勝利は11月6日の数時間だけでなく、夏に大船を無事に大坂湾へ入れた段階から始まっていました。

7月中旬には大船が大坂近くへ配置され、木津川口へ通じる海路をふさぎます。毛利方が11月に来るまで、嘉隆方は数か月間、船・乗員・弾薬・食料を維持しながら封鎖を続けました。

木津川口の地形――大船はどこで待ったのか

16世紀の大坂は、現在より海岸線が内側にあり、上町台地の西へ海・河口・低湿地が広がっていました。木津川口には分流や洲があり、本願寺のある台地へ物資を運ぶ水路の入口でした。

織田方の大船は瀬戸内全域を追い回すのではなく、本願寺へ入るために敵船が通らなければならない狭い入口を押さえます。重量のある大船は浅瀬や急旋回に不利ですが、通過点を封鎖する用途なら、厚い防御と大火力を生かせます。

現在の木津川・大阪港周辺は浚渫、河川改修、新田開発、埋め立てで大きく変わっています。戦場を現在の一点に固定するより、木津川河口から大坂湾岸に広がる水域として見る必要があります。

1578年11月6日――戦闘はどう進んだか

接近
毛利方の約600艘とされる船団が木津川口へ進み、石山本願寺への補給路を開こうとします。
包囲
多数の毛利方船が織田方の大船へ接近。数を生かして取り囲み、火器や矢で攻撃しようとします。
耐える
嘉隆方は大船の板囲いと防御力を生かし、敵が射程へ入るまで封鎖位置を崩しません。
集中射撃
敵の指揮船・主力船を狙い、大鉄砲を一斉に発射。接近する船団の隊形と指揮を崩します。
撤退
毛利方は補給路を開けずに退き、織田方は大船と封鎖線を維持します。

『信長公記』系の記述は、嘉隆が敵を十分近くへ引きつけてから大鉄砲を放ったと伝えます。遠距離で船数を減らすのではなく、指揮と隊形を支える船へ打撃を与え、補給船が河口へ入る動きを止めたと考えると戦術が理解しやすくなります。

「七対六百」をそのまま戦力比にしない

毛利方600艘という数字は『信長公記』系史料や後世の解説で広く使われます。しかし、600艘すべてが同じ大きさの戦闘船だったわけではありません。警固船、輸送船、小船、連絡船などを含む連合船団と考えられます。

一方の織田方も、目立つ大船が6~7艘だっただけで、ほかの小船、沿岸の部隊、補給要員が存在しました。大船は船団の「全部」ではなく、封鎖線の中心です。

毛利方約600艘瀬戸内の複数勢力が集まる大船団。戦闘船と輸送船が混在し、全船が大安宅船ではありません。
織田方大船6~7艘高い防御と火力を持つ中核船。周囲に小船や沿岸部隊が付きました。
単純な比較の問題船数だけでは、船体規模、乗員、火力、目的、地形、補給状態が抜けます。
本当の勝敗基準毛利方が兵糧を本願寺へ届けられたか、織田方が封鎖線を保てたかで判断します。

勝敗――織田方は何を達成したのか

第二次の結果、毛利方船団は石山本願寺への補給を再開できず、織田方の海上封鎖が維持されました。本願寺側は食料、武器、人員を海から受け取る力を大きく制限されます。

第一次では「荷を届けた毛利方」が勝ち、第二次では「荷を通さなかった織田方」が勝ちました。どちらも敵船の全滅が目的ではなく、補給という戦略目標を達成した側が勝者です。

嘉隆は戦後、志摩の島々や摂津の野田・福島などで加増を受けたと鳥羽市資料は説明します。海上封鎖を支えた専門能力が、領地を持つ大名としての地位へ変換されました。

本願寺は、なぜすぐ降伏しなかったのか

第二次木津川口は1578年11月ですが、顕如が講和して大坂を退くのは1580年4月です。海上補給が難しくなっても、本願寺には備蓄、寺内町の人員、周辺拠点、ほかの連絡経路があり、ただちに抵抗不能になったわけではありません。

その後、摂津の荒木村重が敗れ、備前の宇喜多直家が毛利方から織田方へ移り、播磨の三木城も開城しました。毛利氏が本願寺や反信長勢力を東から支援する陸海の条件が次々に失われます。

長期戦による疲弊と物資不足、朝廷を介した和睦交渉も重なりました。第二次木津川口は本願寺を孤立させる重要な一手ですが、十年戦争の終結は複数の戦線と政治交渉によるものです。

第一次と第二次を並べる

時期第一次:1576年7月 / 第二次:1578年11月6日
毛利方の目的第一次:兵糧・弾薬を搬入 / 第二次:封鎖を破って補給を再開
織田方の構成第一次:地域警固衆の多数船 / 第二次:大船を中核にした封鎖船団
毛利方の方法第一次:火攻めと大船団の圧力 / 第二次:多数船で大船へ接近・包囲
織田方の方法第一次:河口で進入阻止 / 第二次:大船で耐え、主力船へ集中砲撃
結果第一次:毛利方が搬入成功 / 第二次:織田方が補給阻止
その後第一次:織田方が再設計 / 第二次:本願寺の孤立が進み1580年に講和

史料で数字・表現が違うところ

大船6艘・7艘九鬼方のみか、滝川方の1艘まで含むかで変わります。
「鉄の船」『多聞院日記』の重要な記述ですが、鉄板の範囲や厚さは分かりません。
大きさ横七間・長さ十二~十三間などの記述がある一方、間・尺の換算と測定箇所に幅があります。
乗員五千七艘全体や随伴船を含む表現の可能性があり、一艘に五千人と読むのは不自然です。
毛利方600艘同型軍艦600隻ではなく、複数勢力と輸送船を含む船団を示す数字として扱います。
本願寺降伏「この勝利で降伏へ追い込んだ」は長期的な影響を示す表現で、実際の講和は約一年半後です。

ここを単純化しない

  • 第一次から九鬼嘉隆が毛利方と直接対決したと決めつけず、明確な中心は第二次に置く
  • 九鬼方6艘と滝川方1艘を区別し、6・7の数字の違いを説明する
  • 大船だけでなく、小船、沿岸部隊、港、修理、弾薬補給まで含めて織田方船団を見る
  • 「鉄甲船」を全面鉄製・蒸気動力の近代軍艦のように想像しない
  • 焙烙が一切通じなかったと断定せず、防御力と戦術の組み合わせで見る
  • 七艘対六百艘を、そのまま七人対六百人のような戦力比に置き換えない
  • 毛利方が全滅したのではなく、補給目的を達成できず退いたことを勝敗の中心に置く
  • 本願寺の講和を海戦だけで説明せず、有岡・宇喜多・三木・長期疲弊・朝廷仲介も見る

第二次木津川口から戦国を読むと

この戦いからは、敗北から学ぶ政権の力が見えます。信長は第一次で失った船を同じ形で補充するのではなく、志摩の嘉隆へ造船を任せ、二年をかけて封鎖の仕組みそのものを変えました。戦国の技術革新は天才の一瞬の発明ではなく、敗戦分析、資材調達、船大工、訓練、港湾整備の積み重ねです。

また、制海権は広い海を永久に所有することではありません。木津川口という通過点に、目的に合った船を置き、必要な期間だけ敵の補給を止める。大船は瀬戸内を自由に追撃するためではなく、狭い入口を守ることで最大の効果を発揮しました。

そして海戦の結果は陸上の政治とつながります。本願寺の孤立、有岡城の攻防、宇喜多直家の寝返り、三木城の落城が重なり、毛利氏の支援線は後退しました。第二次木津川口は「鉄甲船が水軍を破った話」ではなく、補給線をめぐる海陸一体の戦争が織田方へ傾く転換点です。

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10問クイズ

Q1. 第二次木津川口の戦いが起きた年は?

A. 1578年です。旧暦11月6日に戦われました。

Q2. 織田方の大船を率いた中心人物は?

A. 九鬼嘉隆です。

Q3. 大船が6艘とも7艘ともいわれる理由は?

A. 九鬼方6艘だけを数えるか、滝川一益側の1艘を加えるかで変わるためです。

Q4. 大船が一般に呼ばれる名前は?

A. 鉄甲船です。ただし鉄板の範囲など構造には不明点があります。

Q5. 毛利方船団は何艘ほどと記される?

A. 約600艘です。戦闘船・輸送船などを含む船団と考えられます。

Q6. 嘉隆方が敵船へ使った中心的な火器は?

A. 大鉄砲・大砲です。

Q7. 毛利方の最終目的は?

A. 織田方の封鎖を破り、石山本願寺へ兵糧などを届けることです。

Q8. 第二次ではどちらが補給目的を達成した?

A. 織田方が補給を阻止し、封鎖を維持しました。

Q9. 海戦後すぐに本願寺は講和した?

A. いいえ。顕如と信長の講和は1580年4月です。

Q10. 二度の木津川口を比べると何が分かる?

A. 制海権は一度の勝利で固定されず、船・火力・封鎖・補給の再編で変わることです。

参考資料