人物ページ / 北条五代の四代目、関東最大期を支えた当主

北条氏政

北条氏政は、北条氏康の子で、小田原北条氏の四代目当主です。父が大きくした関東の領国を受け継ぎ、上杉謙信や武田信玄の小田原攻めを退けました。1580年には子の氏直へ家督を譲りますが、氏政自身も北条家の重要な決定に関わり続けます。豊臣秀吉との対立が決定的になり、1590年の小田原征伐で北条氏は滅亡します。氏政は「最後に負けた当主」だけでなく、氏康時代の強い関東を、天下統一へ向かう時代の中でどう守ろうとしたかを見る人物です。

1538 - 1590北条五代 四代目関東最大期小田原征伐
北条氏政の肖像
北条氏政像 / Wikimedia Commons / Public Domain

北条氏政を理解する要点

氏政は氏康の基盤を受け継ぐ四代目です。父の存命中から当主になり、上杉・武田の攻撃をしのぎます。氏直へ家督を渡した後も中心に残り、最後は秀吉との小田原合戦で家を失いました。

  • 立場:氏康の子、氏直の父
  • 注目点:当主交代後も続く父子の政治
  • 次につながる:総構・小田原征伐・家康の関東入封
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氏康の基盤を受け継いだ最大期

北条氏政は、氏康が河越合戦後に広げた関東支配を受け継ぐ当主です。氏康のページで見た「勝利を支配の仕組みに変える」段階の次に、氏政はその仕組みを使って領国の最大期を動かします。ここから先は、北条氏が関東を保ち続ける物語と、天下統一の波にどう向き合うかを追う段階です。

  1. 北条氏康が河越の勝利を関東支配へつなげる
  2. 北条氏政が家督を継ぎ、上杉・武田の圧力をしのぎながら領国を動かす
  3. 小田原城を中心に、氏直とともに北条最大期を支える
  4. 名胡桃城事件を経て、豊臣秀吉との対立が決定的になる
  5. 小田原征伐の後、家康の関東入封へつながる

氏政を最初にどう覚える?

氏康から受け継ぐ

1560年、氏康から家督を受け継ぎます。父の時代に整った小田原と関東支配の仕組みを、次の世代として動かしました。

外からの攻撃をしのぐ

1561年の上杉謙信、1569年の武田信玄による小田原攻めを退けます。小田原城の防御力と北条の動員力が試されました。

氏直へ家督を渡す

1580年に子の氏直へ家督を譲ります。ただし氏政が引退して消えたわけではなく、父子で北条家を動かす形が続きます。

天下統一とぶつかる

西国を平定した秀吉が関東へ目を向けると、北条氏は独自の領国を守るだけでは済まなくなりました。

まずは一本の流れで置く

  1. 1538年、北条氏康の子として生まれる
  2. 1560年、父から家督を継ぎ北条氏四代目となる
  3. 1561年、上杉謙信の小田原攻めをしのぐ
  4. 1564年、第二次国府台の戦いで里見氏に勝利する
  5. 1569年、武田信玄の小田原攻めを退ける
  6. 1580年、子の北条氏直へ家督を譲る
  7. 1582年以後、関東で北条氏の支配領域が最大級に広がる
  8. 1589年、名胡桃城をめぐる事件で秀吉との対立が決定的になる
  9. 1590年、小田原征伐の敗北後に切腹する

ざっくり年表

1538
北条氏康の子として生まれます。
1560
氏康から家督を譲られ、小田原北条氏の四代目当主になります。
1561
上杉謙信が小田原を攻めますが、北条側は城を守ります。
1564
第二次国府台の戦いで里見義弘に勝ち、房総方面への影響力を強めます。
1569
武田信玄が小田原を攻めますが、城は落ちません。
1580
氏直に家督を譲ります。以後も氏政が北条家の中心として行動します。
1589
名胡桃城をめぐる事件が、秀吉による北条討伐の直接の口実になります。
1590
小田原合戦で北条氏が降伏。氏政は弟の氏照とともに切腹します。

人物と場所を置く

北条氏康氏政の父。河越合戦と領国支配の整備で、北条氏を関東の大勢力にした三代目当主です。
北条氏直氏政の子で北条五代の五代目。1590年の小田原開城時の当主です。
上杉謙信1561年に小田原を攻めた越後の大名。氏政期も関東をめぐる大きな相手です。
武田信玄1569年に小田原を攻めた甲斐の大名。北条は小田原城を守り抜きます。
豊臣秀吉全国統一を進め、北条氏に上洛と関東の争いの停止を求めた天下人です。
徳川家康小田原合戦後、関東へ移されて江戸を本拠にする人物。北条氏の後の関東を担います。
小田原城北条氏の政治・軍事・経済の中心。氏政・氏直の時代に城下町まで囲む総構が整えられます。

氏政は、ずっと一人で決めたの?

氏政を見る時に大事なのは、当主が交代しても、すぐに前の当主が政治から消えるわけではないことです。氏政は父・氏康が生きている1560年に家督を継ぎ、1580年には自分の子・氏直に家督を譲ります。

つまり氏政の時代は、氏康から受け継ぐ時期と、氏直へ渡す時期が両方あります。小田原合戦では氏直が当主ですが、氏政も隠居として大きな影響力を持っていました。「当主は誰か」だけでなく、父子がどう一族と家臣をまとめたかを見ると、北条氏の最後が立体的に見えます。

1560年

氏康が氏政へ家督を譲ります。父の経験を使いながら、次世代へ移す形です。

1580年

氏政が氏直へ家督を譲ります。氏政は隠居となっても、家の中心から離れません。

1590年

氏直が開城を決め、氏政と氏照が責任を負います。父子・兄弟の立場を分けて見る必要があります。

北条五代

一代ごとに完全に切れるのではなく、親子で支配を引き継ぐ長い流れとして見ると分かりやすいです。

小田原城が二度も落ちなかった理由

氏政が当主になった直後、上杉謙信は1561年に小田原を攻めます。1569年には武田信玄も小田原へ進みます。どちらも強大な相手ですが、小田原城は落ちませんでした。

これは天守が高いからという話ではありません。小田原には北条氏が長く育てた城下町、家臣団、周辺の支城、物資を集める仕組みがありました。氏政の時代には、それらを使って大軍の攻撃に耐える力が示されます。だから1590年に秀吉と向き合う時、北条氏が籠城を選んだことにも、それまでの成功体験があります。

なぜ秀吉との対立は決定的になった?

1580年代後半、秀吉は九州まで勢力を広げ、全国の大名を自分の秩序の下に置こうとしていました。関東では、北条氏と真田氏などの争いを秀吉が裁定し、北条氏には上洛も求めます。

北条側は上洛を先延ばしにしていました。そこへ1589年、北条方が真田方の名胡桃城を奪う事件が起きます。秀吉はこれを、自分の裁定と秩序を破る行為と受け取りました。名胡桃城だけが理由ではありません。北条氏が長く自前で運営してきた関東の支配と、秀吉が作ろうとする全国の秩序が、ここで正面からぶつかったのです。

「氏政が悪かった」だけでは足りない

北条は弱小ではない

氏政・氏直の北条氏は、関東に広い領地と多数の城を持つ大勢力でした。すぐに従う必要がないと考えるだけの基盤がありました。

相手は全国の大名

秀吉軍は、秀吉個人の軍だけではありません。全国の大名を動員した軍勢でした。関東一国の問題ではなくなります。

籠城には成功体験がある

上杉・武田の攻撃を防いだ経験は、1590年にも城を頼りにする判断につながります。

時代の条件が変わる

戦国大名どうしの地域争いから、天下人が全国の関係を決める段階へ変わっていました。

ここだけ覚える

  • 北条氏政は氏康の子で、小田原北条氏の四代目当主。
  • 1560年に家督を継ぎ、上杉謙信・武田信玄の小田原攻めを退けた。
  • 1580年に氏直へ家督を譲った後も、北条家の中心として残った。
  • 名胡桃城をめぐる事件を直接の口実に、秀吉との対立が決定的になった。
  • 1590年の小田原征伐で北条氏は降伏し、氏政は切腹した。

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5問クイズ

Q1. 北条氏政の父は誰?

A. 北条氏康です。

Q2. 氏政が北条氏四代目として家督を継いだ年は?

A. 1560年です。

Q3. 氏政が1580年に家督を譲った相手は?

A. 子の北条氏直です。

Q4. 秀吉との対立の直接の口実になった城は?

A. 名胡桃城です。

Q5. 氏政が最期を迎えた1590年の戦いは?

A. 小田原征伐、小田原合戦です。

参考にした資料