なぜ秀吉は北条氏を攻めたのか
九州を平定した秀吉にとって、次に従わせるべき大勢力が関東の小田原北条氏でした。秀吉は関東・奥羽の大名間の私闘を禁じる「惣無事令」を掲げ、北条氏にも上洛して従うよう求めます。北条氏は関東で独自の勢力を築いており、秀吉の新しい秩序にすぐには入らない立場でした。
直接のきっかけは1589年、北条方の武将が上野の名胡桃城を奪った事件です。秀吉はこれを裁定と惣無事令に背く行為とみなし、1590年春、全国の諸大名を動員して関東へ軍を進めました。北条氏は小田原城を中心に、多くの支城と総構で守る籠城策を選びます。
秀吉のねらい
関東までを自らの秩序に組み込み、全国統一を仕上げること。各地の大名を動員して、豊臣政権の力を示す戦いでもありました。
北条氏のねらい
小田原を拠点に築いた関東での支配を守ること。総構と支城網を備えた小田原城に籠もり、長期戦に持ち込もうとしました。
小田原征伐の流れ
- 011589年、名胡桃城事件が起こる
真田領とされた名胡桃城を北条方が奪い、秀吉は北条氏への出兵を決める大きな理由としました。
- 021590年春、豊臣軍が関東へ進む
秀吉は諸大名を動員して、陸と海から関東へ進軍します。小田原城だけでなく、北条方の支城も各地で攻められました。
- 03小田原城を包囲する
北条氏は小田原城に籠城し、秀吉は長期戦に備えます。小田原を見下ろす石垣山には、秀吉の本陣となる城が築かれました。
- 04支城が落ち、包囲が深まる
山中城・八王子城・鉢形城などが相次いで落ち、小田原城だけで戦いを続けることが難しくなっていきます。
- 05氏直が降伏し、北条氏が滅亡する
1590年7月、氏直が開城して降伏。氏政・氏照は切腹を命じられ、戦国大名としての小田原北条氏はここで終わります。
小田原征伐で何が変わったか
小田原征伐は、一つの城を攻略しただけの戦いではありません。関東の最大勢力である北条氏が滅び、豊臣政権が全国を動かす力を示しました。そして、旧北条領をどう配分するかが、家康の江戸入国と、その後の東国のあり方を決めます。
豊臣秀吉
- 全国統一が前進
関東の北条氏を従わせ、残る奥羽の大名にも豊臣政権の力を示しました。
- 諸大名を動員
全国の大名を一つの軍事行動に参加させ、政権の結束を確かめる場になりました。
- 東国を再編
北条氏の旧領を新たに配分し、関東の勢力図を大きく変えました。
小田原北条氏
- 小田原城が開城
長年の本拠だった小田原城を明け渡し、関東の支配を失います。
- 氏政・氏照が切腹
戦いの責任を問われ、氏政と氏照は命を絶ちました。
- 氏直は追放
当主の氏直は高野山へ追放され、戦国大名としての北条氏は終わります。
徳川家康
- 関東へ移る
秀吉の命で旧北条領へ移り、三河・遠江などの旧領を離れます。
- 江戸を本拠にする
江戸城を拠点に、広い関東を治めるための基盤をつくり始めました。
- のちの幕府へ
この関東入国が、江戸幕府を開くまでの長い土台になります。
「一夜城で北条を降した」だけで見ない
石垣山一夜城の出現は、小田原征伐を象徴する有名な場面です。ただし、築城を隠し、一夜で姿を現したという話には伝承の部分もあります。小田原征伐は、一夜城だけで決着したのではなく、数か月に及ぶ包囲と、支城を含めた広い戦いの末に北条氏が降伏した戦いでした。
三つの読み解きポイント
- 小田原城は非常に大きな要塞だった
城下町まで囲む総構を備えた小田原城は、戦国時代最大級の城郭でした。北条氏は、城と城下を一体で守る防御を整えていました。
- 支城の戦いが包囲を左右した
山中城・八王子城・鉢形城などが落ちると、小田原城の外から助ける力や、北条領全体の連携が弱まっていきます。
- 秀吉一人の戦いではない
豊臣軍には全国の大名が加わりました。信長の側近から秀吉の先鋒大名へ進んだ堀秀政も参陣し、陣中で病死しています。小田原征伐は、秀吉がつくった政権が、諸大名をまとめて大規模な軍事行動を行えたことを示す戦いでもあります。
城の「落ち方」だけでなく、北条氏の領国を支えた支城網がどう崩れ、戦後に誰が関東を治めることになったのかまで見ると、小田原征伐の意味がつかみやすくなります。
参考にした資料
小田原征伐と戦後の関東再編を整理しています。兵数や一夜城の伝承など、史料や研究によって見方が分かれる事項があります。
小田原征伐から、戦国を広げる
北条氏を攻めるまでの経緯、城ごとの攻防、家康の関東入国へ。小田原征伐を起点にすると、秀吉の全国統一と家康の江戸時代への道筋がつながります。