場所ページ / 箱根道を押さえ、小田原の西を守った北条の境目の城

山中城

山中城は、小田原北条氏が小田原城の西方を守るため、箱根の西麓に築いた山城です。伊豆・駿河から小田原へ入る道を押さえる境目の城であり、韮山城や足柄城と連携しました。特徴は、堀の中に土の壁を掘り残す障子堀畝堀です。1590年の小田原征伐では、城主・松田康長らが秀吉軍を迎えますが、圧倒的な兵力差の前に半日で落城します。山中城は「すぐ落ちた城」ではなく、北条氏がどんなふうに国境を守り、なぜ小田原城が外から孤立していったかを見せる場所です。

北条の境目の城障子堀・畝堀箱根道の要衝1590年3月29日落城
山中城の障子堀
山中城の障子堀 / Wikimedia Commons / Mocchy / Public Domain

山中城を見る要点

山中城は小田原の西の入口を守る北条の最前線です。障子堀という独特の土の防御を持ちましたが、1590年に秀吉軍の大軍に攻められ半日で落ちます。小田原征伐の序盤を決めた城です。

  • 立場:小田原の西の玄関
  • 注目点:土だけでつくる障子堀
  • 次につながる:西から小田原へ迫る秀吉軍
最初に押さえる

主線では「小田原を孤立へ向かわせる西の入口」

山中城は、北条氏の歴史を一本道で追うときの寄り道ではありません。名胡桃城事件で秀吉と北条氏の対決が決まった後、小田原征伐の最初期に西から崩された防衛線です。ただし、山中城の落城だけで小田原が直ちに孤立したわけではありません。他の支城への同時攻撃と重なり、外から本城を支える仕組みが弱まる中で、北条氏は小田原城に籠城する局面へ入ります。

  1. 名胡桃城事件 ― 秀吉が北条討伐へ動く
  2. 小田原征伐 ― 全国規模の軍勢が関東へ入る
  3. 山中城 ― 西の入口を守る城が落ちる
  4. 小田原城 ― 支城網が揺らぐ中で本城籠城へ
  5. 北条氏直 ― 開城を決め、北条氏の関東支配が終わる
  6. 家康の関東入封 ― 関東の担い手が入れ替わる

山中城を最初にどう覚える?

国境を守る城

小田原城を本城とする北条氏が、西方から来る敵を防ぐために置いた軍事色の強い城です。

箱根道を押さえる

小田原と三島のほぼ中間にあり、箱根を越える道を城内に取り込んでいます。交通と防御が重なる場所です。

土の技術を使う

石垣ではなく、尾根・急斜面・堀・土塁を組み合わせます。障子堀と畝堀は北条の築城技術の見どころです。

小田原攻めの序盤で落ちる

1590年3月29日、秀吉軍に攻められ半日で落城。秀吉軍はここを越えて小田原へ進みます。

まずは一本の流れで置く

  1. 16世紀半ばごろ、北条氏が小田原西方の守りとして築く
  2. 箱根道を押さえ、韮山城・足柄城と西方防御を分担する
  3. 北条と武田・今川などの緊張が高い地域で、国境警備を担う
  4. 1580年代後半、秀吉との対決を見据えて大規模に修築する
  5. 堀・土塁・出丸を増やすが、一部は完成前のまま1590年を迎える
  6. 1590年3月29日、秀吉軍が山中城を総攻撃する
  7. 城主・松田康長ら北条勢が防戦するが、半日で落城する
  8. 秀吉軍が西から小田原へ進み、北条氏は本城での籠城へ向かう

ざっくり年表

16世紀半ば
小田原北条氏が、西方の国境警備と箱根道の確保を意識して築城したと考えられます。
1560年代以後
武田・今川との関係が変わる中で、西方防御の重要性が高まります。
1587ごろ
秀吉との対決が現実的になり、北条氏は山中城の大修築を進めます。
1589
名胡桃城をめぐる事件をきっかけに、秀吉と北条氏の対決が決定的になります。
1590年3月29日
豊臣軍が総攻撃。松田康長らが防戦しますが、山中城は半日で落城します。
1590年後
山中城は廃城となります。小田原征伐は小田原城の包囲へ進みます。
現在
発掘と整備により、障子堀・畝堀・曲輪が見える史跡公園になっています。

障子堀と畝堀って、何?

山中城の堀は、ただ深く掘った溝ではありません。堀の底に土手状の壁を掘り残し、上から見ると障子の桟のように見えるものを障子堀と呼びます。畝が並ぶように見える畝堀も同じ発想です。

攻める側が堀に落ちると、急な斜面と土の壁に進路を分断されます。赤土が露出していた当時は滑りやすく、登るのも移動するのも難しかったと考えられます。山中城は石を積まない土の城ですが、土を削り残すことで敵を止める精密な防御でした。

堀に落とす

深い空堀で、攻め手が曲輪へ一気に入るのを防ぎます。

動きを分ける

堀の中に残した土の壁で、横へ移動することを難しくします。

上から守る

守る側は土塁や曲輪の上から、堀の中の敵を狙いやすくなります。

地形と合わせる

尾根と急斜面を使い、人工の堀だけに頼らない防御線を作ります。

半日で落ちたなら、城が弱かった?

結論からいうと、山中城の技術が低かったからではありません。北条氏は秀吉との決戦を見据え、1580年代後半から城を大きく修築していました。山中城の障子堀・畝堀は、北条の築城技術を代表する防御です。

ただし1590年の相手は、全国の大名を動員した秀吉軍でした。山中城の守備側は約4千、攻める側は6万を超えるとされ、しかも城の増強は完成前の部分もありました。城の性能だけでなく、兵力、時間、補給、攻める側が北条の各地の城を同時に狙える状況を合わせて見る必要があります。

山中城が落ちると、何が変わる?

西の入口が開く

秀吉軍は箱根を越え、小田原へ近づきます。小田原城の西方防御が大きく崩れます。

北条の支城網が揺らぐ

山中城だけでなく、各地の北条方の城が同時に圧迫されます。小田原は外の支えを失っていきます。

籠城へ集中する

北条氏は小田原城の総構に人と物資を集め、長期の籠城で対抗する選択を強めます。

小田原征伐の空気が変わる

序盤の重要な城が短時間で落ちたことで、秀吉軍の勢いと兵力差が北条側にも伝わります。

ここだけ覚える

  • 山中城は、小田原北条氏が箱根道と西方国境を守るために築いた境目の城。
  • 障子堀・畝堀は、堀の中に土の壁を残して敵の動きを止める北条の技術。
  • 秀吉との対決を見据えて修築されたが、一部は完成前だった。
  • 1590年3月29日、松田康長らが守る山中城は半日で落城した。
  • 落城は秀吉軍が西から小田原へ進む大きな突破口になった。

次に読むページ

10問クイズ

Q1. 山中城が守った小田原の方角は?

A. 西方です。

Q2. 山中城が押さえた重要な道は?

A. 箱根道です。

Q3. 山中城を代表する堀の形は?

A. 障子堀と畝堀です。

Q4. 山中城が落城した年は?

A. 1590年です。

Q5. 山中城の城主として戦死した人物は?

A. 松田康長です。

Q6. 山中城が小田原の西方防御で連携した城の一つは?

A. 韮山城です(足柄城も西方防御に関わりました)。

Q7. 障子堀は、敵にどんな不利を与えるための仕組み?

A. 堀の底での移動や斜面の登攀を難しくし、守備側が上から攻撃しやすくするためです。

Q8. 1590年に山中城を攻めたのは誰の軍勢?

A. 豊臣秀吉の軍勢です。

Q9. 山中城の落城を、主線ではどう位置づける?

A. 小田原を外から支える西の防衛線が崩れ、本城籠城へ向かう過程の一場面です。

Q10. 山中城の後、北条氏の当主・氏直が開城を決める城は?

A. 小田原城です。

参考にした資料