人物ページ / 今川家11代当主

今川氏真

今川義元の子。桶狭間で父を失った後、遠江の反乱、松平元康(徳川家康)の自立、武田信玄の駿河侵攻に直面しました。領国を失ったことだけで終わらせず、戦国大名としての今川家がどのように終わり、氏真がその後を生きたかをたどります。

1538 - 1615 今川家11代当主 駿河・遠江をめぐる攻防
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義元の死後、三つの危機が重なる

1560年、今川義元桶狭間の戦いで戦死すると、氏真が家督を継ぎました。しかし今川家は、単に当主を交代すれば立て直せる状況ではありませんでした。三河では松平元康が岡崎を拠点に自立へ動き、遠江では有力な国衆の離反や反乱への対応が続きます。父の代に広がった領国を、氏真は守る側として引き受けることになります。

三河

松平元康が今川家から距離を取り、のちの徳川家康として三河をまとめ始めます。

遠江

今川方への反発や国衆の動揺が起こり、領国の西側を安定させにくくなりました。

駿河

今川家の本拠であり続けましたが、武田との関係が崩れると直接の脅威にさらされます。

「弱い当主」だけでは見えないこと

氏真は、今川家の衰退と結び付けて語られがちです。ただし、義元戦死後もただちに領国が消えたわけではありません。遠江の反乱を抑え、駿河・遠江の支配を数年にわたって維持しようとしたことは、当時の感状などからも確認できます。氏真の時代を見ると、戦国大名の力は当主個人だけで決まるものではなく、国衆・家臣団・周辺大名との関係によって支えられていたことが分かります。

駿河を失い、掛川城へ

1568年、武田信玄が駿河へ侵攻すると、今川方は大きく動揺します。氏真は駿河を離れ、重臣・朝比奈泰朝が守る掛川城へ入りました。さらに徳川家康が遠江へ進出し、掛川城は今川・徳川・武田の勢力が交わる要地になります。

掛川城での攻防は半年に及び、1569年に開城しました。ここで今川氏は駿河・遠江を領国として支配する戦国大名ではなくなります。ただし氏真本人は滅ぼされたわけではなく、北条氏を頼り、のちには徳川家康のもとで生き残りました。

領国を失った後の氏真

掛川開城後、氏真は北条氏を頼り、のちに徳川家康に仕えました。今川家は、氏親・義元の時代のように駿河・遠江を支配する大名ではなくなります。一方で氏真の系統は江戸時代に高家として続きます。氏真の生涯は、領国を築いた祖父・今川氏親、それを大きく広げた義元、そして戦国の勢力図が変わる中で家を残した氏真という、三代の違いを考える入口になります。

桶狭間から掛川開城まで、九年の流れ

1560
桶狭間の戦いで父・義元が討死し、氏真は駿河・遠江・三河を抱える家の当主として危機に直面します。
1560年代前半
松平元康(のちの徳川家康)が三河で自立し、遠江では家臣の離反や対立が続きます。
1568
武田信玄が駿河へ侵攻し、家康も遠江へ進出します。甲相駿三国同盟は崩れ、氏真は駿府を離れます。
1569
掛川城で朝比奈泰朝らと抵抗した後、家康と和睦して開城します。戦国大名としての今川氏の領国支配はここで終わります。
その後
後北条氏を頼り、のちに徳川家康の保護を受けます。京都や江戸でも暮らし、1615年まで生きました。

領国の崩壊を、氏真一人の能力で説明しない

氏真の時代には、父と有力家臣を一度に失った直後から、三河の自立、遠江国衆の動揺、武田・徳川の同時侵攻が重なりました。父・義元が築いた広域支配は、各地域の国衆と城を結ぶ関係の上にあり、中心が揺れると離反が連鎖しやすい構造でした。氏真の判断には批判される点があっても、三国の喪失を「蹴鞠好きの弱い当主」だけで説明するのは不十分です。

朝比奈泰朝

掛川城で氏真を支えた重臣です。全ての家臣がすぐ離反したわけではなく、最後まで今川家を守った層もいました。

武田信玄

同盟関係を破って駿河へ侵攻した大名。氏真の危機は、甲斐からの圧力によって決定的になります。

徳川家康

三河で自立し、遠江へ進出した相手です。一方、掛川開城後の氏真は最終的に徳川家の保護を受けます。

文化人としての後半生

氏真は和歌や蹴鞠に通じましたが、それは武将として無能だった証拠ではありません。領国を失った後も公家・大名社会の文化的なつながりを生かし、生き残った面があります。

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