人物ページ / 金沢を治め、豊臣政権の重しになった大名

前田利家

前田利家は、若いころから織田信長に仕え、北陸では柴田勝家のもとで戦った武将です。本能寺の変の後は豊臣秀吉と行動をともにし、1583年に金沢へ入って加賀・能登を治める大大名になります。秀吉の死後は、後に「五大老」と呼ばれる有力者の一人として豊臣秀頼を支える側に立ちました。利家が1599年に亡くなると、徳川家康と諸大名の力関係が大きく動き、関ヶ原前夜の緊張が見えやすくなります。

1539 - 1599金沢豊臣五大老関ヶ原前夜
前田利家の肖像
前田利家像 / Wikimedia Commons / Public Domain

前田利家を理解する要点

利家は信長の家臣から出発し、勝家・秀吉の時代を経て金沢の大名になります。秀吉の死後は、幼い秀頼を支える有力者の一人でした。利家の死は、関ヶ原へ向かう前の均衡が崩れる場面として重要です。

  • 立場:信長の家臣・勝家の同僚
  • 注目点:金沢と五大老
  • 次につながる:利家の死と関ヶ原前夜
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利家を最初にどう覚える?

信長の家臣

尾張で生まれ、織田信長に仕えます。まずは織田家の武将として、戦国の表舞台に入った人物です。

北陸で勝家と動く

北陸方面では柴田勝家のもとで働きます。勝家と利家を並べると、織田家の北陸支配が見えやすくなります。

金沢の大名になる

1581年に能登一国を与えられ、1583年には金沢へ入ります。城と城下町を拠点に、北陸の大きな領地を治めます。

秀頼を支える有力者

秀吉の死後、利家は後に五大老と呼ばれる有力大名の一人です。家康と同じく大きな力を持ちながら、役目と立場は同じではありません。

まずは一本の流れで置く

  1. 織田信長に仕える
  2. 北陸で柴田勝家と動く
  3. 本能寺の変後、豊臣秀吉の側へ
  4. 金沢を拠点に北陸の大名になる
  5. 秀吉の死後、豊臣秀頼を支える有力者になる
  6. 1599年に利家が死去し、徳川家康をめぐる力関係が動く
  7. 関ヶ原の戦い

ざっくり年表

1539
尾張国荒子で生まれます。
1550年代 - 60年代
織田信長に仕え、織田家の武将として各地を転戦します。
北陸方面
柴田勝家のもとで北陸の戦いに関わり、織田家の北陸支配を担います。
1581
能登一国を与えられ、大名としての基盤を得ます。
1583
賤ヶ岳の戦いの後、金沢へ入り、加賀北部を与えられます。
1590年代
北陸の大大名として豊臣政権を支え、後に五大老と呼ばれる有力者の一人になります。
1598
秀吉が死去。利家は大坂で豊臣秀頼を支える立場になります。
1599
利家が死去。翌年の関ヶ原へ向かう前に、政権内の均衡が大きく変わります。

人物と場所を置く

織田信長利家が若いころから仕えた主君。利家の出発点です。
柴田勝家北陸方面で利家が行動をともにした織田家の重臣です。
豊臣秀吉本能寺の変後に利家が支えた天下人。利家を北陸の有力大名として扱います。
徳川家康利家と並ぶ豊臣政権の最大級の大名。秀吉の死後は、両者の立場が関ヶ原前夜の鍵になります。
宇喜多秀家同じく五大老に数えられる大名。利家の娘・豪姫が秀家に嫁いだことで、前田家と宇喜多家は婚姻でもつながります。
金沢城利家が1583年に入った北陸支配の中心。後の加賀前田家の本拠になります。
前田利長利家の子で後継者。利家の死後、大坂から金沢へ戻り、前田家を引き継ぎます。

勝家から秀吉へ。ここを単純にしない

利家は北陸で柴田勝家のもとにいました。しかし本能寺の変の後、織田家の主導権をめぐる争いでは秀吉の側に立ち、賤ヶ岳の戦いの後に金沢へ入ります。

この転換を「昔の仲間を裏切った」とだけ見ると、利家の立場が見えにくくなります。信長が亡くなった後、誰が織田家と各地の領地をまとめるのかが決まっていない中で、利家は北陸の大名として生き残り、前田家の基盤を固める道を選びました。

金沢に入ることは、城下町を持つこと

能登から加賀へ

1581年に能登一国を得た利家は、1583年に金沢へ入ります。北陸の中で、より大きな支配の中心を持つことになります。

城を直し、町を整える

金沢城では、防御のための城を整えるだけでなく、領地を治める拠点として城下町を育てる必要がありました。

金沢を離れることもある

豊臣政権の有力者となった利家は、大坂へ出向く機会が多くなります。それでも金沢は前田家の領地経営を支える土台でした。

後の加賀前田家へ

利家の時代の金沢は、江戸時代に大きく発展する加賀前田家の出発点です。人物から都市史へもつながります。

五大老は「同じチーム」ではない

秀吉の死後、利家・家康・毛利輝元・宇喜多秀家・上杉景勝は、後に五大老と呼ばれる有力大名です。ただし、五人が同じ場所で同じ目的を持って動く組織だったわけではありません。それぞれが大きな領地と家臣団を持ち、豊臣秀頼を支えるという枠の中で、互いの力と立場を見ながら動いていました。

徳川家康

関東を基盤にする最大級の大名。利家の死後、存在感がいっそう大きくなります。

前田利家

北陸を基盤にし、大坂で秀頼を支える側にいました。家康を止める役だけではなく、豊臣政権を保つ有力者です。

毛利輝元・宇喜多秀家

中国地方の大大名。関ヶ原では西軍側の中心として登場します。

上杉景勝

会津を基盤にする大名。家康の会津征伐が、1600年の全国的な緊張を高めます。

利家の死が、なぜ関ヶ原前夜に大事?

1598年に秀吉が亡くなった時、秀頼はまだ幼少でした。利家は大坂にとどまり、秀頼を支える有力者として位置づきます。家康と利家は、ともに大きな領地を持つため、二人がいること自体が政権内の力の釣り合いの一部になっていました。

1599年に利家が亡くなると、その釣り合いは変わります。これだけで関ヶ原が決まったわけではありませんが、家康をめぐる対立を抑えたり調整したりする有力者が一人いなくなったことは、その後を読む上で外せません。次に上杉景勝、会津征伐、そして関ヶ原を追うと、利家の死が「前置き」ではなく転換点だったと分かります。

  • 利家は、秀頼を支える豊臣側の有力者だった。
  • 家康と利家の二人が並ぶことで、政権内の力は一枚岩になりにくかった。
  • 利家の死後、各大名の動きが加速し、1600年の関ヶ原へつながる。

ここだけ覚える

  • 前田利家は織田信長の家臣として出発し、北陸で柴田勝家と動いた。
  • 本能寺の変後は豊臣秀吉の側に立ち、1583年に金沢へ入った。
  • 金沢は、後の加賀前田家につながる領地経営の中心になった。
  • 秀吉の死後、利家は後に五大老と呼ばれる有力者の一人だった。
  • 1599年の利家の死は、関ヶ原前夜の力関係が変わる重要な場面。

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5問クイズ

Q1. 前田利家が若いころから仕えた主君は?

A. 織田信長です。

Q2. 北陸で利家がともに動いた織田家の重臣は?

A. 柴田勝家です。

Q3. 利家が1583年に入った城は?

A. 金沢城です。

Q4. 秀吉の死後、利家が数えられた有力大名の呼び名は?

A. 五大老です。

Q5. 利家が亡くなった年は?

A. 1599年です。翌1600年に関ヶ原の戦いが起きます。

参考にした資料

加賀へ迎えた客将

利家は1588年、領地を失った高山右近を加賀へ迎えました。右近は前田家のもとで築城や茶の湯に関わります。