阿波を「後方」と呼ぶだけでは足りない
三好氏は阿波の守護・細川氏を支える守護代層から成長しました。実休は阿波の国衆と軍勢をまとめ、海路で堺・和泉へ兵を送れる基盤を担います。阿波は畿内進出のための補給地であると同時に、三好一族が独自の家臣団と政治を持つ本国でした。
1553年には阿波守護・細川持隆が殺害され、実休が阿波支配の前面へ出ます。この事件の経緯や実休の責任には史料の検討が必要ですが、以後、若い細川真之を戴きながら三好方が実権を握ったことが、阿波三好家の形成につながります。
長慶ひとりの政権ではない
長慶の弟には、讃岐を担った十河一存、淡路水軍を率いた安宅冬康がいました。三好氏は本家・分家・有力家臣が地域ごとに基盤を持ち、その連携で畿内から四国まで影響力を広げました。実休は阿波の軍勢を畿内へ送り、長慶の京都政治を南と西から支えた人物です。
兄弟の分担が政権の強さだった
長慶が飯盛山城を中心に畿内全体を調整し、実休が阿波・堺・和泉方面、一存が讃岐・河内方面、冬康が淡路と海上交通を担いました。役割は固定ではありませんが、複数の拠点と軍勢を一族が束ねたことが三好政権の広がりを支えました。
阿波・堺・畿内で、役割がどう変わったか
久米田の戦いは、政権崩壊ではなく重大な人材喪失
1561
弟・十河一存が死去し、三好一族の地域分担に最初の大きな穴があきます。
1562.3
久米田の戦いで、畠山高政・根来衆らと戦い、実休が戦死します。
1562.5
長慶方は教興寺の戦いで畠山方を破り、畿内の軍事的主導権を取り戻します。
1563–64
嫡男・義興、弟・冬康、長慶自身も相次いで失われ、一族による分担体制が急速に弱まります。
久米田の敗戦だけで三好政権が直ちに崩壊したわけではありません。長慶方は教興寺で反撃に成功しています。それでも、阿波と南畿内を結べる実休を失ったことは大きく、前後して一存・義興・冬康が欠けたことで、地域を分担していた政権の人材基盤が崩れていきました。