人物ページ / 稲葉山城を守った美濃最後の斎藤氏当主

斎藤龍興

斎藤龍興は、1561年に父・義龍の急死を受けて美濃を継いだ、稲葉山城最後の斎藤氏当主です。若い当主という一点だけでなく、有力家臣との結びつきが変わり、信長の圧力が強まった時代として見ると、1567年に城と美濃の主が替わる理由が分かります。

1548年 — 1573年 美濃国主 稲葉山城 1561年 — 1567年

龍興を「若くて城を失った当主」だけで見ない

義龍の子

長良川の後に美濃を保った義龍の子として、父の急死で家督を継ぎます。

家臣団を受け継ぐ

龍興は城だけでなく、地域に根を張る有力家臣との関係も引き継ぐ必要がありました。

信長の攻勢を受ける

尾張を固め、東を清洲同盟で安定させた信長が、美濃へ圧力を強める時期と重なります。

岐阜への転換点

1567年に稲葉山城を失ったことで、斎藤氏の美濃は終わり、城下は信長の岐阜へ変わります。

父・義龍の急死が、継承の条件を変えた

1561年、義龍が急死すると、龍興が美濃と稲葉山城を継ぎます。父の時代の美濃は、道三を破った義龍が家臣団をまとめ、信長の進出を阻む勢力でした。龍興はその土台を受け継ぎましたが、同じ条件をそのまま保てたわけではありません。

重要なのは、龍興個人の年齢だけではなく、当主と有力家臣の関係です。戦国大名の国は、当主一人だけで支配できるものではありません。城、所領、兵、人脈を持つ家臣がどちらへつくかが、美濃の行方を左右しました。

美濃三人衆が動くと、何が変わる?

美濃三人衆と呼ばれる稲葉一鉄・氏家卜全・安藤守就らは、美濃で大きな力を持つ有力家臣でした。彼らが信長側へ移ったことは、龍興が敵軍と向き合うだけでなく、国内の支えも失うことを意味します。

稲葉一鉄

美濃の有力武将。三人衆の動きを追うと、城の外側から美濃が揺らぐ様子が見えます。

氏家卜全

地域と兵を支える有力家臣。織田側へ関係が変わることで、攻略戦の条件が変わります。

安藤守就

三人衆の一人。個人の「裏切り」とだけでなく、当主と家臣団の結びつきの変化として見る必要があります。

龍興の敗北を「能力が低かったから」と一言で片づけるより、信長の軍事的な圧力と、国を支える家臣団の離反が重なった結果として読む方が、稲葉山城が落ちた理由をつかみやすくなります。

龍興の継承から、岐阜までの流れ

1556年
祖父・道三が長良川で敗れる

父・義龍が美濃の主導権を握り、龍興はその後継者として育ちます。

1561年
義龍が急死、龍興が継ぐ

稲葉山城と美濃の当主になります。

1561〜1567年
信長が美濃への攻勢を強める

家臣団との関係も動くなかで、斎藤氏の支配を支える土台が弱まります。

1567年
稲葉山城が陥落

信長が龍興を退け、城と城下を新しい本拠・岐阜へ変えます。

1567年以後
伊勢長島を経て、越前の朝倉氏を頼る

落城後は長良川を下って伊勢長島へ逃れ、のちに越前の朝倉義景のもとへ身を寄せます。美濃の当主ではなくなっても、信長に対する朝倉方の客将として生き延びました。

1573年
刀根坂の戦いで討死

信長の朝倉攻めで義景方が退却するなか、越前・刀根坂で敗死します。稲葉山城を失った龍興の戦いは、朝倉氏の滅亡とともに終わります。

稲葉山城を失うとは、何を失うことか

山上の要害金華山に立つ城は、美濃を守る軍事の中心でした。
城下との結びつき長良川と城下の人・物の動きにつながる、政治・経済の中心でもありました。
斎藤氏の継承道三・義龍・龍興と続いた美濃の支配が、信長の岐阜へ切り替わる決定的な出来事です。

1567年は城が一つ替わっただけの年ではありません。龍興の美濃が終わり、信長が翌年の上洛へ向かう新しい足場を得た年です。

城を失った龍興は、その後どうしたか

龍興は落城直後に伊勢長島へ逃れ、のちに越前の朝倉義景を頼りました。ここで大事なのは、美濃へすぐ戻って斎藤氏を再興したわけではない、という点です。龍興は朝倉方に身を寄せる客将となり、信長に対抗する陣営の一員として行動します。

1573年、信長が朝倉氏を攻めると龍興も朝倉方として動き、退却中の刀根坂で討死しました。稲葉山城の落城は美濃の支配を失った場面であり、刀根坂は龍興自身の戦いが終わる場面です。この二つをつなげると、「岐阜へ変わった後、龍興はどこへ消えたのか」が途切れません。

信長の流れに置くと

東を安定させる

清洲同盟によって、信長は三河との関係を安定させ、美濃へ力を向けやすくなります。

美濃の内側が動く

龍興の時代に有力家臣との関係が変わり、信長にとって城を攻める条件が整います。

岐阜から京都へ

信長は稲葉山城を得た翌1568年、足利義昭を奉じて京都へ進みます。

ここだけ覚える

  • 龍興は道三の子ではなく、義龍の子、道三の孫。
  • 1561年、父の急死によって美濃と稲葉山城を継いだ。
  • 美濃三人衆の動きは、龍興の支配を内側から弱める大きな要因になった。
  • 1567年の稲葉山城陥落で、斎藤氏の美濃は信長の岐阜へ切り替わる。
  • 龍興は伊勢長島を経て朝倉義景を頼り、1573年の刀根坂で討死した。

斎藤龍興から、どこへ進む?

参考にした資料

龍興の時代は、当主個人の評価だけでなく、父の急死、有力家臣との関係、信長の進出を重ねて読むことが大切です。このページでは、美濃から岐阜への主の交代を中心に整理しました。