人物ページ / 道三の後に美濃を保った当主

斎藤義龍

斎藤義龍は、1556年の長良川の戦いで父・道三を破り、美濃の主導権を握った当主です。父子対立の印象が強い一方、その後は家臣団をまとめ、美濃を信長がすぐには越えられない国として保ちました。義龍を見ると、道三の死と1567年の美濃攻略の間にある「五年の統治」が見えてきます。

1527年 — 1561年 美濃国主 長良川の戦い 家臣団と統治

義龍を、父を倒した人物だけで終わらせない

道三の後継者

1554年に家督を継ぎ、道三の後を担う美濃の当主として動き始めます。

長良川で主導権を得る

1556年、家中の多くを味方につけて道三を破り、美濃の政権を自分の時代へ移します。

美濃を維持する

有力家臣を置く宿老制、知行・軍役の仕組みを整えたとされ、戦後の美濃を支えます。

信長を止める

道三と信長の婚姻関係があっても、義龍の美濃は織田に従いませんでした。

義龍が美濃で変えたこと

義龍は道三を倒して終わりではなく、父子対立で揺れた美濃を当主として保つ必要がありました。岐阜市の資料では、有力家臣による合議の形や、知行・軍役に関する仕組みを整えたとされます。

これは、義龍を単に「反逆した子」と見るだけでは見えない部分です。美濃の国人・家臣団が義龍側を支えたからこそ、信長は道三の死を利用してすぐ美濃を手に入れることはできませんでした。

家督1554年に道三から家督を受け、義龍が美濃の正式な当主となります。
家臣団有力家臣をまとめることが、父子対立後の美濃を維持する鍵になりました。
織田との関係信長は道三の娘婿でしたが、義龍の美濃とは別の勢力として対立を続けます。

道三との決裂は、単純な親子げんかではない

道三と義龍の対立には、後継をめぐる不信、家中の主導権、義龍の出自をめぐる伝承など、複数の要素が語られます。どれか一つだけを決定的な原因にするのではなく、美濃の家中が大きく割れた政権争いとして押さえるのが大切です。

1556年の長良川の戦いで道三が敗れると、織田と斎藤の関係も変わります。道三・信秀の和睦と信長の婚姻は美濃を織田のものにする約束ではなく、義龍が当主になれば、その関係は新しく組み直されることになりました。

義龍の時代から、岐阜までの流れ

1554年
義龍が家督を継ぐ

道三が隠居し、義龍が美濃の当主になります。

1556年
長良川の戦い

義龍が道三を破り、美濃の主導権は義龍へ移ります。

1556〜1561年
美濃を保つ

家臣団をまとめ、信長の美濃進出を阻む当主として美濃を維持します。

1561年
義龍が死去、龍興が継ぐ

若い龍興の代になると、家臣団と斎藤氏の結びつきが揺らぎ始めます。

1567年
信長が稲葉山城を攻略

義龍の死から六年後、城と城下は信長の岐阜へ変わります。

信長にとって、義龍は「次の壁」だった

婚姻だけでは届かない

信長は道三の娘婿とされますが、道三が倒れれば、その婚姻だけで美濃を動かすことはできません。

援軍は間に合わない

信長は道三を助けようと動きましたが、長良川の戦いには間に合いませんでした。

美濃攻略は長期戦になる

義龍が美濃を保ったことが、信長の美濃攻略が1567年まで続く背景の一つです。

ここだけ覚える

  • 義龍は、道三の後を継いだ美濃の当主であり、1556年の長良川で道三を破った。
  • 義龍の時代、美濃は信長がすぐには攻略できない独立した勢力だった。
  • 1561年に義龍が死去し、子の龍興が美濃を継ぐ。
  • 義龍を入れると、道三の死から信長の岐阜までが一直線ではなかったと分かる。

斎藤義龍から、どこへ進む?

参考にした資料

義龍の統治や父子対立の細部には、史料の解釈による違いがあります。このページでは、義龍が美濃の当主として統治を行い、道三の死後も美濃が信長に対抗した大きな流れを中心に整理しました。