義敏を理解する四つの要点
一族から迎えられた後継者
斯波氏嫡流の当主が若くして相次いで没したため、義敏は大野斯波氏の系統から武衛家を継ぎました。家督は血統だけで自動的に決まったわけではありません。
守護代と権限を争った
京都にいる守護に代わって、甲斐氏ら守護代が越前支配を担っていました。義敏は家臣を抑えて守護権力を立て直そうとし、内戦になります。
復帰が大政変を招いた
1466年、伊勢貞親の後押しで三国守護へ復帰しますが、山名宗全らが反発。わずか十日余りで文正の政変が起き、義敏は再び京都を追われました。
家督争いが家臣を自立させた
義敏・義廉が守護職を争う間、朝倉孝景は越前を平定し、織田氏は尾張で二派に分かれて地域支配を固めました。
斯波氏と三国支配を先に整理
| 出自 | 斯波氏一族の大野氏系。父・斯波持種とともに越前大野郡を基盤とした。 |
|---|---|
| 継いだ家 | 三管領の一つ斯波武衛家。越前・尾張・遠江の守護職を持つ有力家だった。 |
| 対立者 | 初めは越前守護代・甲斐常治。のち、幕府が新当主に立てた斯波義廉。 |
| 子 | 松王丸(のち義寛)。義敏失脚後に一時家督を継ぐが、1461年に退けられた。 |
| 主な支持 | 応仁の乱では細川勝元の東軍。越前の一部国人、尾張の織田敏定らが義敏方となった。 |
| 三家老 | 甲斐氏・朝倉氏・織田氏。越前・尾張・遠江の実務と軍事を担い、内紛の中で力を伸ばした。 |
家督継承から尾張を基盤にするまで
嫡流の斯波義健が後継者なく没し、一族の義敏が越前・尾張・遠江守護と家督を継承します。複数国の支配実務は守護代・家老に依存していました。
越前国人と結ぶ義敏方が、守護代甲斐氏・朝倉孝景方と交戦。義敏は幕府が命じた関東出兵より越前の敵を攻めることを優先し、将軍の怒りを買いました。
義敏は周防の大内氏を頼って退き、子・松王丸が一時家督を継ぎます。しかし幕府は松王丸も出家させ、渋川氏出身の義廉を新当主に任じました。
将軍側近・伊勢貞親の働きで義敏が復帰し、義廉は家督を失います。山名宗全や義廉方の家臣が反発すると貞親・義敏らは京都から逃れ、義廉が復帰しました。
義敏は細川勝元方、義廉は山名宗全方に属します。義敏方は越前・尾張・遠江へ進出し、京都の戦争が三つの守護国に広がりました。
義敏方が越前で優位になる時期もありましたが、朝倉孝景が東軍と取引して越前平定を進めます。1475年、義敏は大野郡の拠点を失い越前を離れました。
尾張では義敏方の織田敏定と義廉方の織田敏広が争い、1479年の和睦後は南北に分かれて支配。斯波当主の名義は残っても、実務は織田両家へ移っていきました。
長禄合戦は「主君と家臣のけんか」ではない
斯波氏は京都で幕政を担い、越前には守護代・郡代を置いて支配しました。長年実務を握る甲斐氏と、その支配に反発する越前国人の間にはすでに緊張があり、義敏は国人側と結んで守護権力を取り戻そうとします。対する甲斐氏には朝倉孝景らが加わりました。
義敏・国人方
守護自身による支配強化と、甲斐氏に所領・職を押さえられた国人の回復要求が重なった。
甲斐・朝倉方
既存の守護代機構を守り、幕府の関東出兵命令にも応じることで将軍の支持を得た。
1459年、義敏は関東へ向かう命令に従わず甲斐方を攻め、敗北します。この命令違反が罷免の直接原因でしたが、内戦の背景には越前で誰が土地・税・軍勢を動かすかという構造的な争いがありました。長禄合戦も一日の決戦名ではなく、越前各地に広がった一連の内戦です。
文正の政変が、応仁の乱の陣営を固めた
1466年、伊勢貞親ら将軍側近は義敏を復帰させ、義廉を退けました。ところが貞親が将軍の弟・足利義視を失脚させようとしたとの疑いも重なり、山名宗全と反貞親派が反発します。危険を察した貞親・義敏らは京都を脱出し、義廉が家督へ戻りました。
政変は短時間で終わりましたが、結果は大きく、義廉・山名方が幕府で優位になり、細川勝元は警戒を強めます。斯波家では義敏方が細川へ、義廉方が山名へ結びつき、畠山氏の政長・義就対立と並んで翌年の東西陣営を形づくりました。
斯波氏の内紛後、越前と尾張はどう分かれたか
越前:朝倉氏が一国支配へ
朝倉孝景は当初義廉・西軍を支えましたが、1471年に将軍義政から越前守護職を望みに任せる旨の御内書を得て東軍へ転じます。甲斐氏・義敏方を退け、1475年までに越前をほぼ平定しました。
尾張:織田氏が二派で分割
守護代織田氏も義敏方・義廉方に分裂。1479年の和睦後、清須方と岩倉方が尾張南北を分けて支配し、守護斯波氏より地域を直接動かす力を持つようになります。
朝倉氏・織田氏の自立を、家臣が突然主君を追放した一度の「下克上」と見るのは不十分です。両家はもともと守護支配の実務を担い、相次ぐ家督交代の中で軍事・行政・地域の支持を蓄積しました。尾張ではさらに織田家内の分裂を経て、16世紀に信秀・信長の弾正忠家が伸びていきます。
誤解しやすい点と史料上の注意
- 義敏は斯波嫡流の実子ではなく一族から迎えられたが、幕府の承認を受けた正式な当主だった。
- 長禄合戦は義敏個人の命令違反だけでなく、守護・守護代・越前国人の支配権争いだった。
- 義敏と義廉の家督は将軍の裁定で何度も入れ替わり、片方だけを常に正統と固定できない。
- 文正の政変は応仁の乱そのものではないが、斯波両派が細川・山名へ分かれる直前の重要な政変だった。
- 朝倉孝景は西軍から東軍へ転じており、応仁の乱の所属は十年間ずっと同じではない。
- 越前朝倉・尾張織田の自立は同じ形ではなく、越前は一国平定、尾張は守護代二派の分割支配から進んだ。