人物ページ / 敗軍の浪人から柳川へ帰った大名

立花宗茂

高橋紹運の子として生まれ、立花道雪の養子となって立花家を継いだ九州の武将。豊臣秀吉の九州平定後に柳川城主となり、関ヶ原では西軍側として大津城を攻めました。敗戦後に領地を失いますが、徳川政権下で大名へ返り咲き、1620年には旧領・柳川への復帰を認められます。

1567 - 1642 立花道雪の養子 西軍・大津城攻め 柳川へ旧領復帰
九州の若武者、柳川の大名、敗軍の浪人、再び柳川藩主へ。 宗茂の生涯は、豊臣政権から徳川政権へ移る時代を、敗北と再起の両側から見せてくれます。
最初に押さえる

立花宗茂を理解する要点

立花宗茂は、大友氏に仕えた高橋紹運の長男として生まれ、のちに名将・立花道雪の養子となりました。道雪の娘・誾千代と結婚して立花家を継ぎ、島津氏が北上した九州の戦乱を生き抜きます。

豊臣秀吉の九州平定後、筑後柳川の大名として独立。朝鮮出兵でも戦いましたが、1600年の関ヶ原では西軍に属し、大津城攻めに参加したため本戦には間に合いませんでした。敗戦後は改易され、一時は浪人となります。

その後、徳川秀忠から奥州南郷(棚倉)一万石を与えられて大名に復帰。大坂の陣では徳川方として働き、1620年に柳川への復帰が決まりました。敗者側から徳川大名となり、旧領へ戻った経歴が宗茂最大の特徴です。

  • 前半は「高橋紹運の子から、立花道雪の後継者となった武将」
  • 中盤は「秀吉に認められ、筑後柳川を治めた豊臣大名」
  • 関ヶ原では「西軍として大津城を攻め、本戦に不在だった大名」
  • 後半は「改易と浪人を経て、徳川政権下で柳川へ戻った再起の大名」

関係人物と事件

高橋紹運 実父。大友氏の家臣として筑前岩屋城を守り、島津軍との戦いで討死した武将です。
岩屋城の戦い 1586年、実父・紹運が約七百余の城兵と島津軍を迎え撃った籠城戦。宗茂の九州での戦いを理解する前段です。
立花道雪 養父。戸次鑑連ともいい、大友氏を支えた重臣です。宗茂を養子に迎え、立花家の後継者としました。
誾千代 道雪の娘で宗茂の妻。道雪から立花城の家督を譲られた経歴を持ち、宗茂の立花家継承をつなぐ人物です。
大友宗麟 高橋・立花両家が仕えた豊後の大名。宗茂の前半生は、大友領国を島津氏の進攻から守る戦いの中にありました。
豊臣秀吉 九州平定後、宗茂を独立した大名として筑後柳川に置いた天下人。宗茂は豊臣政権下で朝鮮出兵にも参加しました。
石田三成 関ヶ原で西軍形成を動かした奉行。宗茂は西軍側に加わり、主戦場ではなく大津城攻略へ向かいました。
毛利輝元 西軍の総大将。毛利一門の毛利元康と宗茂らが、大津城を攻める西軍部隊を構成しました。
京極高次 大津城を守った徳川方の大名。宗茂らの大軍に包囲されて開城しますが、その抵抗は西軍部隊を本戦から遠ざけました。
大津城の戦い 宗茂が西軍側で参加した関ヶ原前後の攻城戦。城が開いた9月15日には、関ヶ原本戦の決着もついていました。
関ヶ原の戦い 宗茂が柳川を失う原因となった天下分け目の戦い。西軍敗北後、領地を没収されて浪人となりました。
徳川家康 関ヶ原後の新しい天下人。宗茂はのちに徳川方として大坂の陣へ参加し、徳川政権の大名となります。
徳川秀忠 二代将軍。1606年、宗茂を奥州南郷(棚倉)一万石の大名として取り立て、再起の道を開きました。

宗茂を四段階で見る

1. 高橋家から立花家へ

高橋紹運の長男として生まれ、立花道雪の養子になります。血筋は高橋家、受け継いだ家は立花家という二つの家の歴史を背負いました。

2. 柳川の豊臣大名へ

九州平定後、秀吉から筑後の領地を与えられます。大友家臣の立場を離れ、一国一城を担う独立大名となりました。

3. 西軍敗北で浪人へ

大津城では攻城側として勝ちながら、関ヶ原全体では西軍が敗北。柳川を失い、大名から領地のない浪人へ転落します。

4. 徳川大名として柳川へ

徳川政権に仕え直して一万石の大名へ復帰し、さらに旧領・柳川を与えられます。敗北から約二十年をかけた再起でした。

立花宗茂の生涯を年表で追う

高橋紹運の長男として生まれる

大友氏の家臣・高橋紹運の子として誕生します。幼名は千熊丸と伝わります。

立花道雪の養子となる

道雪の娘・誾千代と結婚し、立花家を継ぐ立場になります。高橋家と立花家を結ぶ大きな転機です。

立花道雪が死去

養父の死後、宗茂が立花家の軍勢と領地を率いる立場を引き継ぎます。

島津軍と戦う

実父・紹運が岩屋城で戦死するなか、宗茂は立花山城を守って反撃。高鳥居城を攻略した働きは、九州へ入った秀吉から評価されました。

筑後柳川の大名となる

秀吉の九州平定後、筑後南部の領地を与えられて柳川城へ入ります。太閤検地後の石高は十三万二千二百石でした。

文禄・慶長の役に出陣

豊臣政権の大名として朝鮮半島へ渡り、諸将とともに戦います。

大津城を攻める

関ヶ原では西軍に属し、毛利勢らと京極高次が守る大津城を包囲。9月15日に開城させますが、同日に本戦で西軍が敗れました。

柳川を失う

西軍参加によって改易され、柳川には田中吉政が入ります。宗茂は領地を持たない浪人となりました。

奥州で大名へ復帰

徳川秀忠から奥州南郷(棚倉)一万石を与えられ、約六年の浪人生活を経て大名へ戻ります。

徳川方として大坂の陣へ

大坂冬の陣夏の陣では徳川方として参加。豊臣大名だった宗茂が、徳川の天下を守る側へ移りました。

柳川への復帰が決まる

筑後柳川十一万石余を与えられることが決まり、旧領へ戻る道が開かれます。

再び柳川城へ入る

宗茂は約二十年ぶりに柳川へ戻り、立花家による柳川藩の支配を再開しました。

島原・天草一揆に出陣

老齢ながら幕府軍に加わります。これが宗茂にとって最後の戦場となりました。

江戸で死去

宗茂は江戸で76年の生涯を閉じます。柳川藩は立花家が幕末まで治めました。

二人の父と、立花家の継承

宗茂を理解する最初の鍵は、実父・高橋紹運と養父・立花道雪です。両者はともに大友氏を支えた武将で、それぞれ筑前の重要拠点を守っていました。宗茂は高橋家の嫡男でありながら、道雪の要請を受けて立花家へ入ります。

道雪には娘の誾千代がいました。誾千代は幼くして立花城の家督を譲られた経歴を持ち、宗茂との婚姻によって立花家の継承が形づくられます。したがって宗茂の立花家入りは、単に有力武将の養子になった話ではなく、家・城・軍勢を次代へつなぐ政治的な結びつきでした。

1586年、実父の紹運は岩屋城で島津軍を迎え撃ち、討死します。宗茂は立花山城を守り、その後に反撃しました。二人の父から受け継いだ家と戦いが、宗茂の前半生を形づくっています。

なぜ柳川城主になったのか

島津の北上に抵抗

大友氏の勢力が後退するなか、宗茂は立花山城を守り、九州へ到着した豊臣軍を助ける形で反撃しました。

秀吉から独立して評価される

九州平定後、宗茂は大友氏の家臣としてではなく、秀吉から直接領地を与えられる大名になります。

筑後南部の中心を担う

柳川城を本拠に、筑後南部の四郡を治めました。太閤検地後は十三万二千二百石を領します。

城下町づくりが始まる

1587年の宗茂入城後、柳川では本格的な城下町形成が進みます。戦う武将から領国を治める大名への転換でした。

大津城では勝ち、関ヶ原では敗れた

1600年、宗茂は西軍に加わります。ただし向かったのは美濃の関ヶ原ではなく、琵琶湖畔の大津城でした。城主の京極高次が徳川方へ転じて籠城したため、西軍は毛利元康や宗茂らを含む約一万五千の部隊を攻略へ振り向けます。

大津城は約一週間の抵抗の末、9月15日に開城しました。城一つをめぐる戦いでは、宗茂ら攻城側の勝利です。しかし同じ9月15日、関ヶ原本戦で西軍は敗れました。大津にいた部隊は主戦場へ参加できず、結果として高次の籠城が東軍を助ける形になります。

宗茂の関ヶ原を「本戦で敗れた」とだけ説明すると、この位置関係が抜け落ちます。宗茂は大津城を落としながら、戦役全体の敗者になり、その結果として柳川を失ったのです。

改易は、領地だけでなく立場を失うこと

柳川から退く

西軍敗北後、宗茂の所領は没収されます。柳川には東軍側で戦った田中吉政が入りました。

家臣団を維持できない

大名の領地は、城主個人の財産だけではありません。城・年貢・家臣の生活を支える基盤を一度に失うことでした。

約六年の浪人生活

宗茂は大名から浪人となります。関ヶ原後に多くの西軍大名が没落するなか、再び領地を得る機会を待ちました。

立花家は消滅しなかった

所領を失っても、宗茂本人と旧臣のつながりは残ります。この人的なまとまりが、後の再出発を支えました。

浪人から柳川へ戻るまで

徳川政権の中へ入る

関ヶ原で西軍だった過去を抱えながら、宗茂は新しい天下人である徳川家との関係を築き直します。

一万石で大名へ復帰

1606年、秀忠から奥州南郷(棚倉)一万石を与えられます。規模は旧領より小さくても、まず大名の身分を取り戻しました。

徳川方として働く

大坂の陣では徳川方に立ち、豊臣家との最終決戦へ参加します。新しい政権への奉公を積み重ねました。

旧領柳川へ復帰

田中家の後継が絶えると、1620年に筑後柳川十一万石余を与えられ、翌年に入城します。

なぜ宗茂は復帰できたのか

宗茂の復帰を、一度の武功や家康の好意だけで説明するのは単純すぎます。まず、九州での戦歴や豊臣政権下での働きによって、武将・大名としての能力が広く知られていました。徳川政権にとっても、経験ある大名を取り立てる意味がありました。

次に、宗茂は一万石で復帰した後、大坂の陣などで徳川方として奉公しています。いきなり旧領へ戻ったのではなく、小さな領地から信頼を積み直す期間がありました。また、柳川を継いでいた田中家が無嗣断絶となり、領主を置き直す事情も重なります。

1620年の再封決定と1621年の柳川入城を分けて見ると、復帰が一つの劇的な恩赦ではなく、約二十年をかけた段階的な再起だったことが分かります。

豊臣大名と徳川大名、二つの顔

領地を得た理由 豊臣期は九州での働きを秀吉に評価されて柳川へ。徳川期は棚倉での再起と奉公を経て、再び柳川へ入りました。
政権との関係 秀吉の直臣大名として朝鮮出兵へ参加し、関ヶ原では西軍側へ。のちには徳川方として大坂の陣へ参加します。
柳川の意味 最初の柳川は戦功による新領地、二度目の柳川は敗北と浪人を越えて戻った旧領でした。
宗茂から見える時代 天下人が豊臣から徳川へ交代しても、武将は生き残り方を探し、家と家臣団を次代へつなごうとしました。

最後の戦場は島原・天草一揆

柳川へ戻った宗茂は、再び領国経営を担います。それでも戦歴は終わらず、1638年には島原・天草一揆の鎮圧へ出陣しました。七十歳を越えた宗茂にとって、これが最後の戦場となります。

若いころは大友領国を守って島津軍と戦い、壮年期には豊臣政権の戦争と関ヶ原を経験し、晩年には徳川幕府の軍勢として九州へ戻りました。一人の生涯に、戦国末期から幕藩体制成立までの変化が重なっています。

宗茂を入れると、何が見える?

九州と中央政局がつながる

大友・島津の戦いから秀吉の九州平定、朝鮮出兵、関ヶ原へ進み、地方の戦乱が全国政権へ組み込まれる流れが見えます。

関ヶ原は本戦だけではない

宗茂が大津にいたことで、関ヶ原戦役が美濃だけでなく、琵琶湖畔や全国で同時進行した戦いだったと分かります。

改易後にも続く物語

敗れた大名の歴史は、1600年で終わりません。浪人、再仕官、小領の大名、旧領復帰という長い再建があります。

家を残すという戦い

宗茂の後半生は合戦の勝敗だけでなく、変わった政権に適応し、立花家と旧臣を近世へ残す過程でした。

名将伝説と確認できる流れを分ける

宗茂には「西国無双」や、本多忠勝と並べる評価など、後世によく知られた称賛があります。また、個々の合戦には鮮やかな武勇談も数多く伝わります。人物像を楽しむ入口にはなりますが、言葉の成立時期や細部は史料ごとに分けて考える必要があります。

一方、紹運の子として生まれたこと、道雪の養子となったこと、1587年に柳川へ入ったこと、大津城攻めと改易、1606年の大名復帰、1620年の再封決定と翌年の柳川入城は、柳川市などの資料で確認できる生涯の骨格です。伝説を外しても、宗茂の再起は十分に際立っています。

ここだけ覚える

  • 立花宗茂は高橋紹運の子で、立花道雪の養子となって立花家を継いだ。
  • 1587年、秀吉の九州平定後に筑後柳川の大名となった。
  • 1600年は西軍として大津城を攻め、関ヶ原本戦には参加できなかった。
  • 西軍敗北後に柳川を失い、約六年の浪人生活を経験した。
  • 1606年に棚倉で大名へ復帰し、1620年に柳川への旧領復帰が決まった。

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10問クイズ

Q1. 立花宗茂の実父は?

A. 高橋紹運です。

Q2. 宗茂を養子に迎えた武将は?

A. 立花道雪です。

Q3. 立花道雪の娘で、宗茂の妻となった人物は?

A. 誾千代です。

Q4. 1587年、宗茂が城主となった城は?

A. 柳川城です。

Q5. 宗茂を柳川の大名に取り立てた天下人は?

A. 豊臣秀吉です。

Q6. 関ヶ原で宗茂が攻めた城は?

A. 京極高次が守る大津城です。

Q7. 宗茂は関ヶ原で東軍・西軍のどちらに属した?

A. 西軍です。

Q8. 関ヶ原後、宗茂はどうなった?

A. 改易されて柳川を失い、浪人となりました。

Q9. 1606年、宗茂が大名へ復帰した領地は?

A. 奥州南郷(棚倉)一万石です。

Q10. 柳川への復帰が決まった年は?

A. 1620年です。実際の柳川入城は翌1621年でした。

参考資料

宗茂の出自・養子縁組・柳川入封・関ヶ原後の改易・棚倉での再起・柳川復帰・晩年は柳川市の文化財資料と公式広報を中心に整理し、大津城攻めは大津市歴史博物館と滋賀県公式観光情報で確認しました。