鳴海城は、尾張と三河の境目を押さえる城だった
鳴海は尾張東南部にあり、三河から尾張へ向かう道と海に近い地域です。山口教継は織田方の城主としてこの地域を押さえていましたが、今川氏の力が三河で強まるなか、今川方へ移ります。
山口教継
鳴海城主。織田方から今川方へ移り、尾張東部の勢力図を変えました。
今川義元
駿河・遠江・三河を基盤に、鳴海・大高を足場として尾張へ圧力をかけます。
織田信長
鳴海・大高の周囲に砦を置き、今川方の城どうしの連携を断とうとします。
離反から、桶狭間前夜へ
1550年代
山口氏が今川方へ移る
鳴海・大高をめぐる尾張東部の情勢は、今川方に有利なものへ変わります。
1559年ごろ
信長が周囲に砦を築く
丹下・善照寺・中嶋、丸根・鷲津などの砦を置き、鳴海城と大高城の連絡を妨げようとします。
1560年
桶狭間の戦い
今川軍が尾張へ進軍し、桶狭間で義元が戦死します。山口父子もこの前後に今川方の命で最期を迎えたと伝えられます。
教継の離反は、個人の裏切りだけとして片づけない方が分かりやすい。 尾張東部は今川・織田の勢力が接する地域でした。山口氏の選択は、その境目でどちらが城と人を維持できるかという問題でもありました。
ここだけ覚える
- 山口教継は鳴海城を基盤にした織田方の有力者で、のちに今川方へ移った。
- 鳴海・大高が今川方の前線となり、信長は周囲に砦を築いて対抗した。
- 教継をたどると、桶狭間が尾張東部の長い緊張の延長にあったと分かる。
山口教継から、どこへ進む?
参考にした資料
山口氏の離反時期や最期の細部には資料間で記述差があります。本ページでは、鳴海が今川方の前線となり、信長が砦で対抗した大きな流れを中心に整理しました。