事件ページ / 家康の東下後、畿内で始まった関ヶ原前哨戦

伏見城の戦い

1600年、徳川家康が会津へ向かった後、鳥居元忠らが守る伏見城を西軍諸将が包囲した戦い。城は8月1日に落ち、元忠らは戦死しました。西軍にとっては畿内の要地を確保する勝利でしたが、攻略には時間を要し、ここから伊勢・北陸・美濃へ戦線が広がっていきます。

1600年7月–8月 鳥居元忠 西軍の勝利 関ヶ原の前哨戦
秀吉の城が、徳川と西軍の最初の戦場になる。 伏見城の成立・攻防・再建を追うと、豊臣から徳川へ政治の中心が移る過程まで見えてきます。
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伏見城の戦いの要点

伏見城は、豊臣秀吉が京都の南に築き、晩年を過ごした政治拠点です。秀吉の死後は五大老の徳川家康が入りました。1600年、家康が上杉景勝を討つため東へ向かうと、家康の家臣・鳥居元忠らが留守を守ります。

石田三成らが畿内で挙兵し、毛利輝元を総大将とする西軍が成立すると、伏見城は最初の大きな攻撃目標となりました。元忠は開城を拒み、少数の守備兵とともに籠城。城は約二週間の攻防を経て8月1日に落城し、焼失しました。

  • 城の軸は「秀吉の政治拠点から家康の城へ」
  • 人物の軸は「鳥居元忠と西軍諸将」
  • 事件の軸は「会津征伐から関ヶ原へ移る最初の攻城戦」

関係人物と事件

鳥居元忠 伏見城の守将。家康が東へ向かった後も城に残り、西軍の降伏要求を退けて籠城しました。
徳川家康 秀吉死後に伏見城へ入った五大老。1600年には上杉景勝を討つため東へ進み、元忠らに城を任せました。
石田三成 家康の東下後に挙兵し、西軍の形成を動かした奉行。伏見城攻略から関ヶ原へ続く戦役を始動させました。
毛利輝元 西軍の総大将として大坂城に入った五大老。伏見城の開城を求める側に立ちました。
宇喜多秀家 西軍の有力大名。小早川秀秋・小西行長・島津義弘らとともに伏見城攻めへ参加したとされます。
小早川秀秋 西軍側として伏見城攻めに参加。その後、関ヶ原本戦では東軍側として大谷隊を攻撃します。
大谷吉継 西軍側の武将。伏見城攻めが進む時期に北陸方面を担当し、諸大名へ西軍参加を働きかけました。
豊臣秀吉 伏見城を築いた人物。1598年にこの城で死去し、その後の政治的空白が関ヶ原への前段となります。
豊臣秀頼 秀吉の後継者。伏見城の戦いは、幼い秀頼をいただく豊臣政権内部の対立として起きました。
会津征伐 家康と主力大名が東へ向かうきっかけ。伏見城の守備が薄くなり、西軍挙兵の機会になりました。
関ヶ原の戦い 伏見城落城から約一か月半後の本戦。伏見は全国へ広がる関ヶ原戦役の最初の重要な攻城戦です。

伏見城は一つの城ではない

指月の伏見城

秀吉は1592年、伏見の指月に隠居所の造営を始めます。秀頼誕生後に本格的な城郭へ拡張し、周辺へ大名屋敷と城下町を整えました。

1596年の大地震

完成した指月伏見城は慶長伏見地震で倒壊します。秀吉はすぐ北東の木幡山へ場所を移し、新しい伏見城の再建を始めました。

木幡山の伏見城

再建された城で秀吉は晩年を過ごし、1598年に死去します。1600年の戦いで鳥居元忠らが守ったのは、この木幡山伏見城です。

徳川の伏見城

関ヶ原後、家康は焼失した城を再建します。1603年にはこの城で征夷大将軍の宣下を受け、徳川政権の西国拠点となりました。

なぜ伏見城が最初に狙われたのか

京都と大坂の間

伏見は京都の南に位置し、淀川水運を通じて大坂へつながります。畿内を支配するうえで、見過ごせない交通の要地でした。

家康の畿内拠点

秀吉死後、家康は伏見城を拠点として政務を進めました。西軍にとって、背後に残せない徳川方の城でした。

豊臣政権の象徴

伏見城は秀吉が最期を迎えた城です。この城を誰が押さえるかは、単なる軍事拠点以上の政治的意味を持ちました。

西軍の最初の結集点

西軍諸将が共同で城を攻めることで、挙兵を実際の軍事行動へ変えます。伏見城攻めは西軍形成を目に見える形にしました。

築城から落城・再建まで

秀吉が伏見に隠居所を築く

指月の地で造営を始め、のちに本格的な城郭と城下町へ発展させます。

地震で倒壊し、木幡山へ

慶長伏見地震で指月伏見城が倒壊。秀吉は木幡山でただちに再建を始めました。

秀吉が伏見城で死去

秀吉の死後、家康が五大老として城へ入り、畿内の政治拠点にします。

家康が会津へ向かう

上杉景勝を討つため、家康と東国へ向かう諸大名が伏見を離れます。鳥居元忠らが城に残りました。

西軍が形成される

三成らが挙兵し、毛利輝元を総大将に迎えます。西軍は伏見城へ開城を求めますが、元忠は拒否しました。

伏見城への攻撃が始まる

宇喜多秀家・小早川秀秋ら西軍諸将が城を包囲。少数の守備側は籠城して抵抗を続けます。

伏見城が落城・焼失

西軍が城内へ攻め込み、鳥居元忠ら守備側の武将は戦死。城は戦火で焼失しました。

関ヶ原本戦

東軍が西軍を破り、政治の主導権は家康へ移ります。

家康が伏見城を再建

焼失した城を徳川の城として再建。1603年、家康は伏見城で征夷大将軍の宣下を受けました。

家光の将軍宣下後に廃城へ

徳川家光も伏見城で将軍宣下を受けます。その後、城は廃され、建物や石材は各地へ移されました。

落城までの五段階

1. 元忠らが城に残る

家康は主力を率いて東へ向かいます。伏見城には鳥居元忠、内藤家長、松平家忠らが残り、畿内の徳川拠点を守りました。

2. 開城要求を拒む

西軍側は伏見城の明け渡しを求めますが、元忠は応じません。ここで政治的な対立が攻城戦へ変わります。

3. 西軍主力が包囲する

宇喜多・小早川・小西・島津・毛利系の諸隊など、西軍の有力大名が攻城へ加わったとされます。

4. 守備側が抵抗を続ける

兵力差のある籠城戦でしたが、城はすぐには落ちませんでした。西軍は畿内の要地を確保するため、攻撃を続けます。

5. 8月1日に落城する

西軍は城内へ入り、元忠らは本丸で最期を迎えたと伝わります。城は焼失し、西軍が伏見を確保しました。

西軍の勝利なのに、なぜ元忠が語られるのか

伏見城の戦いそのものは、西軍が城を攻略した勝利です。西軍は京都・大坂の間にある徳川方の拠点を排除し、東へ軍を進める条件を整えました。

一方で、元忠らの籠城によって、西軍はすぐに次の戦場へ移れませんでした。この抵抗は、家康側が東国の諸大名をまとめて西へ引き返す時間と並行して進みます。そのため後世には、元忠が自ら死を覚悟して西軍を足止めした忠臣として強く語られるようになりました。

ただし、家康と元忠が事前にどこまで細かな作戦を共有していたか、別れの場面で何を語ったかには後世の物語も含まれます。「西軍が勝利した攻城戦」と「徳川側で象徴化された元忠の籠城」を分けて見るのが大切です。

三つの攻城戦で関ヶ原を見る

戦場籠城側攻撃側戦役への影響
伏見城 鳥居元忠ら徳川方 西軍諸将 西軍が勝利したが、最初の重要拠点攻略に約二週間を要しました。
上田城 真田昌幸・信繁ら西軍方 徳川秀忠軍 東軍の大部隊が足止めされ、関ヶ原本戦へ間に合いませんでした。
大津城 京極高次ら徳川方 毛利・立花勢ら西軍 西軍が開城させたものの、大部隊が9月15日まで大津にとどまりました。

三城とも攻撃側が城を開かせるか、守備側を退けています。しかし戦役全体では、どの兵が何日その城へ引きつけられたかが別の意味を持ちました。

焼失後の伏見城

家康が再建する

関ヶ原に勝利した家康は、伏見城を徳川の城として再建します。豊臣秀吉の城は、徳川政権の西国支配を支える城へ変わりました。

将軍宣下の舞台になる

1603年に家康、1605年に秀忠、1623年に家光が伏見城で征夷大将軍の宣下を受けます。三代の将軍交代を示す政治舞台でした。

役割が二条城へ移る

京都に二条城が整備され、伏見の首都的・政治的機能は次第に縮小します。1623年以後、伏見城は廃城・破却へ進みました。

部材が各地へ移る

廃城後、建物や石垣の部材は二条城・大坂城や社寺などへ移されたと伝わります。城が消えても、部材と記憶は各地へ残りました。

「血天井」はどう読む?

京都の養源院・正伝寺・源光庵などには、伏見城落城時の床板を天井へ移したと伝わる「血天井」があります。鳥居元忠らの最期を伝える場所として広く知られています。

一方、どの板がどの建物から移されたか、血痕とされる跡をどこまで史実として確認できるかには注意が必要です。ここでは「伏見城の戦いを伝える後世の伝承」と位置づけ、戦闘経過の直接証拠とは分けて扱います。

読み方の注意

伏見城の守備兵・攻城兵の人数、家康と元忠の別れ、落城のきっかけなどは、軍記や後世の伝承を含めて複数の説明があります。人数は固定せず、京都市資料で確認できる「元忠の籠城、西軍諸将の包囲、8月1日の落城・焼失」を経過の軸にしています。

また伏見城は、指月と木幡山、豊臣期と徳川期が混同されやすい城です。1600年に焼失した城と、1603年に家康が将軍宣下を受けた再建後の城を同じ状態のまま扱わないことが重要です。

ここだけ覚える

  • 伏見城は秀吉が築き、1598年に最期を迎えた政治拠点。
  • 家康が会津へ向かった後、鳥居元忠らが城に残った。
  • 西軍諸将が城を包囲し、1600年8月1日に落城・焼失した。
  • 戦いは西軍の勝利だが、攻略に時間を要したことも関ヶ原全体では意味を持った。
  • 家康は戦後に城を再建し、1603年に伏見城で将軍宣下を受けた。
  • 伏見城は1623年以後に廃城となり、部材が各地へ移された。

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10問クイズ

Q1. 伏見城を築いた人物は?

A. 豊臣秀吉です。

Q2. 1600年に伏見城を守った徳川家臣は?

A. 鳥居元忠です。

Q3. 家康が伏見城を離れて向かった相手は?

A. 会津の上杉景勝です。

Q4. 伏見城へ開城を求めたのはどちらの陣営?

A. 西軍です。

Q5. 伏見城が落城した日は?

A. 1600年8月1日です。

Q6. 伏見城の戦いの勝者は?

A. 城を攻略した西軍です。

Q7. 伏見城落城後に行われた大決戦は?

A. 関ヶ原の戦いです。

Q8. 1596年、最初の伏見城が倒壊した原因は?

A. 慶長伏見地震です。

Q9. 家康が伏見城で征夷大将軍の宣下を受けた年は?

A. 1603年です。

Q10. 伏見城落城を伝える後世の伝承として知られる天井は?

A. 血天井です。

参考資料

伏見城の築城・地震・再建・焼失・将軍宣下・廃城は、京都市の都市史資料と発掘調査報告を中心に整理しています。戦闘の人数や逸話には諸説があるため、確認できる年代と城の変化を優先しました。