人物ページ / 豊臣と毛利をつなぐ養子から、関ヶ原の勝敗を動かした若き大名へ

小早川秀秋

小早川秀秋は、豊臣秀吉の正室・高台院の甥として生まれ、幼くして秀吉の養子となり、のちに毛利一門の小早川隆景へ養子入りした大名です。筑前名島を本拠に朝鮮出兵へ動員され、秀吉晩年には越前への転封と旧領復帰を経験。1600年の関ヶ原では、開戦前から東軍側と接触しながら西軍の作戦にも加わり、松尾山から大谷吉継の陣へ攻撃を開始しました。その行動は戦局を決定づけましたが、「鉄砲で脅されて突然寝返った」という一場面だけでは捉えられません。豊臣家の後継問題、養子縁組、九州支配、朝鮮侵攻、家臣団の構成、徳川家康との交渉まで重ねて見る人物です。

1582 - 1602 秀吉・高台院の近親 名島から岡山へ 関ヶ原・松尾山
「関ヶ原の裏切り者」だけでは、秀秋の人生の半分も見えない。 木下家の少年が豊臣家の後継候補となり、小早川家を継いで九州の大領主となる。その立場が秀頼誕生と秀吉の死で揺れ、18歳の決断が天下分け目の戦いを動かし、岡山51万石の領国を得た直後に21歳で終わるまでを追います。
最初に押さえる

小早川秀秋を理解する要点

秀秋は1582年、木下家定の五男として生まれたとされます。家定は高台院の兄であり、秀秋は秀吉の血縁ではなく、正室側の甥でした。幼名は辰之助。秀吉の養子となって羽柴秀俊を名乗り、幼いころから豊臣家の後継候補に近い待遇を受けます。

秀頼誕生後の1594年、小早川隆景の養子となり、翌年に家督と筑前を中心とする領国を継ぎました。名島城を本拠とし、家中には小早川氏以来の家臣と、秀吉が付けた奉行・側近が並びます。朝鮮出兵では若くして大軍の上に立ちましたが、1598年に越前へ移され、秀吉の死後に筑前へ戻されました。

1600年、秀秋は伏見城攻撃など西軍の作戦に参加する一方、黒田長政らを通じて家康側とも交渉していました。決戦前日に松尾山へ入り、本戦では大谷隊を攻撃。脇坂安治らの転身も続き、西軍崩壊の大きな引き金となります。戦後は備前・美作51万石を与えられ岡山城を整備しましたが、1602年に21歳で急死し、秀秋の小早川家は後継者を欠いて改易されました。

  • 高台院の甥として生まれ、秀吉の養子となった
  • 秀頼誕生後、小早川隆景の養子となり毛利一門へ入った
  • 筑前名島を本拠に、朝鮮出兵へ大軍を率いて渡海した
  • 越前への転封と筑前への復帰で、秀吉晩年の不安定な立場を経験した
  • 関ヶ原以前から東軍側と接触し、決戦前日に松尾山へ入った
  • 戦後は岡山城下を整えたが、わずか2年で急死した

関係人物と事件

木下家定実父。高台院の兄で、秀吉政権下では姫路城主となりました。秀秋は木下家の五男として生まれたとされます。
高台院(北政所)秀吉の正室で秀秋の伯母。秀秋が幼くして秀吉の養子となる入口になった木下家側の中心人物です。
豊臣秀吉最初の養父。秀俊を豊臣家の近くで育て、のちに小早川家へ送り、筑前支配と朝鮮出兵を担わせました。
豊臣秀頼1593年に生まれた秀吉の実子。誕生後、秀吉の養子たちの位置づけが変わり、秀俊は小早川家へ養子入りしました。
小早川隆景二人目の養父。毛利一門の有力大名で、1594年に秀俊を養子とし、翌年に家督と九州の領国を譲りました。
毛利輝元小早川家の本家筋にあたる毛利家当主。関ヶ原では西軍の総大将となり、秀秋とは同じ毛利一門でありながら別の進路を取りました。
山口宗永秀吉から秀秋の補佐を命じられた奉行。若い当主の筑前支配は、宗永ら豊臣政権の人員に強く支えられていました。
平岡頼勝・稲葉正成秀秋の側近。関ヶ原前には黒田長政らを介した家康側との交渉に関わったとされます。
徳川家康秀吉死後の政局を主導した大老。秀秋側と開戦前から交渉し、戦後には備前・美作の大領を与えました。
黒田長政筑前に縁を持つ東軍大名。秀秋の家臣団へ働きかけ、家康側への転身を促した人物です。
石田三成西軍の実務を主導した奉行。秀秋を西軍の一員として見込みましたが、松尾山をめぐる統制には失敗しました。
大谷吉継松尾山正面の山中に布陣した西軍大名。秀秋の転身を警戒し、実際に最初の攻撃を受けました。
宇喜多秀家西軍主力の大名。敗戦後に失った備前・美作は、戦後の秀秋へ与えられました。
脇坂安治ら大谷隊付近にいた西軍諸将。秀秋の攻撃に続いて東軍へ転じ、西軍の戦線崩壊を加速させました。
朝鮮出兵秀秋が慶長の役で渡海し、若い総大将級として諸将を束ねた侵攻戦争です。
伏見城の戦い関ヶ原前、秀秋が西軍側で参加した攻城戦。決戦時の転身だけでは見えない複雑な所属を示します。
関ヶ原の戦い松尾山から大谷隊へ攻撃し、秀秋の名が「裏切り」と結びつく決戦となりました。

秀秋の生涯を動かした五段階

1. 木下家から豊臣家へ

高台院の甥として生まれ、幼くして秀吉の養子へ。実力を示す前から、後継候補に近い政治的な価値を持ちました。

2. 小早川家へ

秀頼誕生後、毛利一門の小早川家を継承。豊臣家と毛利家を結ぶ養子となり、九州の大領主へ移りました。

3. 朝鮮と越前

若い当主として朝鮮へ渡り、帰国後は越前へ転封。秀吉の評価と政権の都合に立場を大きく動かされました。

4. 松尾山の決断

西軍の軍事行動へ参加しながら東軍とも交渉し、決戦で大谷隊を攻撃。勝敗を大きく東軍へ傾けました。

5. 岡山と早世

備前・美作の大領を得て岡山城下を改造。しかし統治の成果が固まる前に急死し、大名家は断絶しました。

じっくり年表

1582
木下家定の五男として生まれたとされます。幼名は辰之助。
幼少期
高台院の甥という縁から秀吉の養子となり、羽柴秀俊を名乗ります。
1589
幼い秀俊が豊臣姓と高い官位を得て、政権内で特別な待遇を受けます。
1593
秀頼が誕生。豊臣家の後継をめぐる養子たちの位置が大きく変わります。
1594
小早川隆景の養子となり、豊臣家から毛利一門へ入ります。
1595
隆景から家督と筑前を中心とする領国を譲られ、名島城を本拠とします。
1597
隆景が死去。秀俊は「秀秋」と名を改めたとされます。
1597–98
慶長の役で朝鮮へ渡海。蔚山城救援などに関わります。
1598年4月
筑前から越前北ノ庄へ移されます。領知は15万石とされ、大幅な配置換えでした。
1598年8月
豊臣秀吉が死去。秀秋を取り巻く政治状況が変わります。
1599年
筑前の旧領へ復帰します。名島を拠点とする大名へ戻りました。
1600年夏
西軍側の行動に入り、伏見城攻撃へ参加します。
同年8月以降
黒田長政らを通じて家康側と交渉。決戦以前から転身の準備が進みます。
9月14日
関ヶ原南西の松尾山城へ入ります。西軍が毛利輝元を迎える想定で整備していた山城でした。
9月15日
決戦では当初動かず、のちに山中の大谷隊を攻撃。脇坂らの転身も続きます。
戦後
西軍の拠点・佐和山城攻撃にも加わり、家康から働きを認められます。
1601
宇喜多家の旧領である備前・美作51万石へ移り、岡山城へ入ります。
1601–02
岡山城の改修、外堀の開削、城下の再編を急速に進めます。
1602年10月
岡山で急死。21歳。後継者がなく、秀秋の小早川家は改易されます。

高台院の甥は、なぜ秀吉の養子になったのか

秀秋の実家は、秀吉正室・高台院の木下家です。実父の木下家定は高台院の兄にあたり、秀秋は高台院から見れば甥でした。秀吉との関係は「秀吉の実の甥」ではなく、妻方の近親です。この違いを押さえると、秀秋が血統だけでなく、秀吉夫妻が築いた家族ネットワークの中で育てられた人物だと分かります。

秀秋は幼くして秀吉の養子となり、羽柴秀俊を名乗りました。当時の秀吉には成人した実子がおらず、親族・養子を大名や公家と結びつけて政権を支える必要がありました。秀俊への高い官位と待遇は、幼児の功績ではなく、豊臣家の将来を支える存在としての政治的な位置を表しています。

実家

高台院の実家である木下家。秀秋は秀吉夫妻にとって、信頼できる妻方の近親でした。

最初の名

幼名は辰之助。秀吉の養子となって羽柴秀俊を名乗り、のちに小早川秀秋となります。

養子の意味

個人を育てるだけでなく、家と家、領地と領地、政権と有力大名を結ぶ戦国政治の方法でした。

早すぎる出世

幼い秀俊への官位は能力評価ではなく、秀吉政権が与えた役割と期待の大きさを示します。

秀頼誕生と、小早川家への養子入り

1593年に秀頼が生まれると、秀吉の実子を中心に後継体制を組み直す必要が生じました。翌年、秀俊は小早川隆景の養子となります。これを単純に「秀頼に追い出された」とだけ見ると、養子縁組の政治的な意味を見落とします。

隆景は毛利元就の三男で、秀吉政権でも重く用いられた有力大名でした。秀俊を後継に迎えることで、小早川家の大領と豊臣家の近親が結びつきます。一方、秀俊にとっては豊臣家の中心から離れ、別の家名・家臣団・領国を継ぐ大転換でした。

豊臣側

秀頼を中心とする後継体制を整えつつ、近親の秀俊を有力大名家へ配置できました。

小早川側

豊臣家との結びつきを強め、広い九州領を継ぐ後継を得ました。

毛利側

一門に豊臣家の養子を迎えるため、家格と安全を得る一方、本家との関係は複雑になりました。

秀秋本人

豊臣家の養子から小早川家当主へ。家臣・領国・期待される役割が一度に変わりました。

名島城と筑前支配――若い当主を誰が支えたのか

1595年、隆景は秀秋へ家督を譲り、自身は三原へ退きました。秀秋は筑前名島城を本拠とし、筑前一国を中心に筑後・肥前の一部へまたがる大領を引き継ぎます。名島城は博多湾に面し、三方を海に囲まれた水上交通の要衝でした。朝鮮半島へ向かう軍勢と物資を集めるうえでも重要な場所です。

ただし、当主はまだ十代前半でした。領国運営は秀秋一人が行ったのではなく、秀吉が後見役として付けた山口宗永らの奉行、秀秋とともに入った側近、小早川家以来の家臣が支えます。これは「名目だけの当主」という意味ではなく、複数の権力線が一つの家中に重なっていたということです。

  • 名島城は博多湾岸の海城で、九州支配と海外出兵をつなぐ拠点だった
  • 領国には小早川家の旧臣と、秀吉政権が送り込んだ人員が並んだ
  • 若い秀秋の判断は、側近・奉行・本家毛利との関係を抜きに読めない
  • 関ヶ原前の東軍との交渉でも、平岡頼勝ら側近の役割が大きかった

朝鮮出兵――十代の総大将級が背負った戦争

1597年に始まった慶長の役で、秀秋は十代半ばながら大軍を率いる立場で朝鮮へ渡りました。蔚山城が明・朝鮮軍に包囲された際の救援にも関わります。軍勢の上に立ったのは、秀秋個人の経験より、小早川家の兵力と豊臣家近親としての家格によるところが大きいものでした。

後世には、秀秋が現地で勇敢に戦ったため命令違反を責められた、石田三成の報告で減封された、といった物語が語られます。しかし転封の理由を一つの逸話だけで確定することはできません。現地での軍事行動、軍監からの報告、秀吉晩年の領地再編、若い当主への統制を合わせて見る必要があります。

大軍の名目的な頂点

十代の秀秋は諸将を統べる立場でしたが、実務は軍監・奉行・経験ある武将に支えられました。

侵攻の責任

若さだけで被害を生んだ侵攻戦争への参加が消えるわけではありません。豊臣政権の大名として軍を動かしました。

名島の役割

筑前は人・兵糧・船を集め、朝鮮へ送る後方拠点でした。領国支配と海外戦争は直結しています。

三成との関係

「三成の讒言で失脚」という断定は避け、同じ戦争を別の役割から動かした関係として見るのが安全です。

越前転封と筑前復帰――秀秋の立場は二度動いた

1598年4月、秀秋は筑前の大領から越前北ノ庄へ移され、15万石になったとされます。一般には「朝鮮での独断専行を咎められた減封」と説明されますが、秀吉晩年には多くの大名配置が組み替えられており、原因を秀秋の一行動や三成の報告だけに絞るのは危険です。

同年8月に秀吉が死去すると、翌年には秀秋が筑前旧領へ戻されます。わずかな期間に大幅な転封と復帰を経験したことは、豊臣政権内部で秀秋の位置が定まっていなかったことを示します。領地を戻した政権中枢、とくに家康への意識が、1600年の判断に影響した可能性はありますが、それだけを「恩返し」という単純な動機にもできません。

関ヶ原前半――秀秋は西軍の軍事行動にも参加した

1600年、家康が上杉景勝を討つため東国へ進むと、大坂・伏見で反家康の動きが始まりました。秀秋は西軍側の軍事行動に加わり、鳥居元忠が守る伏見城攻撃へ参加します。つまり、決戦前から一貫して東軍だったわけではありません。

一方で、黒田長政ら東軍側は秀秋の家臣へ接触し、味方になるよう働きかけました。秀秋側も家康へ協力を約束する方向で交渉したとみられます。伏見城を攻めたことと、東軍との内通は同時期の政治の中に存在しました。戦国末期の陣営は、現代の政党のように最初から固定されていたわけではありません。

  • 表面上は西軍の作戦に入り、伏見城攻撃へ参加した
  • 裏では黒田長政らを通じ、家康側との交渉が進んだ
  • 家臣団の意見、旧領復帰への評価、豊臣・毛利との関係が重なっていた
  • 決戦当日の一瞬ではなく、数週間の交渉過程として見る必要がある

松尾山――戦場を見下ろす場所へ、前日に入った

松尾山は関ヶ原盆地の南西にあり、山頂部は標高293メートル。街道と戦場を見下ろせる大規模な山城がありました。西軍は当初、総大将の毛利輝元が入ることも想定して城を整備していましたが、9月14日、秀秋軍がここへ入りました。

この入城は、空いていた山に偶然陣を置いたという話ではありません。西軍が用意した重要拠点を大軍で占め、東西双方を見渡せる位置を確保した行動です。秀秋軍は1万5千前後とされ、どちらへ動いても戦局に大きな影響を与えました。

北東

関ヶ原盆地と東西両軍の主戦場。戦況を見て動ける位置でした。

正面

山中には大谷吉継らが布陣。西軍側も秀秋の動きを警戒していました。

西軍にとって

毛利総大将用ともされた拠点を、態度の定まらない大軍に占められた状態でした。

東軍にとって

事前交渉どおり秀秋が動くかどうかが、正面戦闘とは別の大きな不確定要素でした。

関ヶ原本戦――大谷隊への攻撃が連鎖を生んだ

9月15日の朝、秀秋軍はすぐには動きませんでした。主戦場では宇喜多・石田・小西・大谷ら西軍と、福島・黒田・細川ら東軍が激戦を続けます。昼前後、秀秋軍は松尾山を下り、大谷吉継の部隊へ攻撃を始めました。

大谷隊は秀秋の動きを警戒し、いったんは攻撃を押し返したとされます。しかし近くにいた脇坂安治・小川祐忠・赤座直保・朽木元綱らも相次いで東軍側へ転じ、大谷隊は側面と背後から圧迫されました。大谷隊の崩壊は西軍全体の戦線へ波及し、短時間で敗走が広がります。

秀秋の攻撃

松尾山の大軍が西軍側へ向かったことで、戦場の兵力バランスが一気に変わりました。

大谷の備え

転身を警戒した配置で応戦しましたが、周囲の諸隊まで敵に回ると支えきれませんでした。

連鎖した転身

秀秋一人の行動ではなく、脇坂ら複数隊の転身が西軍崩壊を決定的にしました。

責任

事前交渉があったとしても、直前まで同じ陣営にいた部隊を攻撃した結果と責任は残ります。

「問鉄砲で脅されて寝返った」は、確定した実況ではない

有名な物語では、動かない秀秋に家康が鉄砲を撃ちかけ、驚いた秀秋が東軍へ転じたとされます。ところが徳川幕府が編纂した主要な記録にも、この劇的な場面が一貫して載るわけではありません。後世の軍記や逸話の中で具体化した可能性が高く、決戦の実況として断定できません。

岐阜関ケ原古戦場記念館も、家康が鉄砲を撃たせた話を「一説」として紹介しています。開戦前から東軍側との交渉があり、前日に松尾山を占めていたことを考えると、秀秋の行動は一発の銃声だけで突然決まったものではありません。

確認できる流れ開戦前の東軍側との接触、決戦前日の松尾山入城、本戦での大谷隊攻撃。
後世に有名な場面家康が秀秋の陣へ威嚇射撃を行い、決断を迫ったという「問鉄砲」。
安全な読み方鉄砲の逸話は可能性の一つに留め、事前交渉と戦場配置を判断の骨格にする。

勝利のあと――佐和山から岡山へ

関ヶ原直後、秀秋は西軍の拠点だった佐和山城への攻撃にも加わりました。東軍への協力は本戦の一度だけで終わらず、敗れた西軍を解体する軍事行動まで続きます。家康はその働きを評価し、宇喜多秀家から没収した備前・美作51万石を秀秋へ与えました。

1601年、秀秋は筑前名島から岡山城へ移ります。名島城には一時黒田長政が入り、その後、資材は新しい福岡城の築城にも再利用されました。秀秋の移動は、関ヶ原後に九州と中国地方の大名配置が大きく組み替わる一部でもありました。

岡山城主・秀秋――短い統治で何をしたのか

岡山へ入った秀秋は、宇喜多秀家が築いた城と城下をそのまま使うだけでなく、改修を進めました。城の外側を囲む外堀は「二十日堀」とも呼ばれ、短期間に多数の領民・家臣を動員して掘られたと伝わります。城西側には寺院を集め、防御と都市整備を兼ねた空間がつくられました。

沼城など領内の城から櫓や門を移し、岡山城へ機能を集中させたとも考えられています。これは戦国期に分散していた拠点を整理し、岡山を領国の中心へまとめる政策でした。ただし工事は強い負担を伴い、秀秋の統治を「名君の善政」だけで評価することもできません。

城を強くする

櫓・門・堀を整え、宇喜多時代の岡山城を徳川政権下の領国中枢へ作り替えました。

城下を囲う

外堀を短期間で開削し、城と町をまとめて守る都市構造をつくりました。

寺町を置く

城下西側へ寺院を集め、街道・防御・住民配置を組み直しました。

負担を集める

急速な普請は領民と家臣の労働に支えられました。成果と負担を同時に見る必要があります。

21歳の急死――祟りや狂気を史実にしない

1602年10月、秀秋は岡山で急死しました。岡山へ入ってから2年に満たず、満21歳でした。死因を確定できる同時代史料は乏しく、病死とされるものの具体的な病名は分かりません。

後世には、大谷吉継の祟り、酒による病、裏切りへの罪悪感からの狂乱など、劇的な説明が付け加えられました。しかし、どれも確定した事実として扱うことはできません。跡継ぎがいなかったため、秀秋を当主とする小早川大名家は改易され、備前・美作は池田家へ移ります。

確認できること

1602年10月に岡山で急死し、後継者を残さなかったこと。

確認できないこと

大谷の祟り、狂乱、特定の病名を死因として断定すること。

家の結末

秀秋の大名家は改易。ただし歴史上の小早川一族すべてが同時に消えた、という意味ではありません。

領国のその後

岡山は池田家のもとで再編され、秀秋の短期工事も城下の基盤へ組み込まれました。

秀秋をどう評価するか――「裏切り者」と「被害者」の間

秀秋が若く、秀吉の都合で二度養子となり、領地も大きく動かされたことは確かです。家臣団と領国を自分で選んだわけではなく、豊臣政権の家族政策に人生を左右されました。その意味で、政治に使われた少年という面があります。

一方、1600年には18歳の大名当主であり、1万を超える兵を率いていました。東軍と事前交渉しながら西軍作戦に参加し、決戦で元の味方を攻撃した行動は、本人と家臣団の政治判断です。若さを理由に結果を消すことも、「卑怯者」の一語で背景を消すこともできません。

本人の選べなさ幼少期の養子、家督、領国、海外出兵は秀吉政権が決めた部分が大きい。
本人側の判断家臣と相談し、東軍側と交渉し、松尾山へ入り、大谷隊を攻撃した。
直接の結果大谷隊の崩壊と西軍敗走を加速させ、家康の勝利と戦後処分を助けた。
読むべき焦点性格診断ではなく、家・領地・軍勢を守る計算と、それが他者へ与えた結果。

小早川秀秋の三つの顔

豊臣家の養子

高台院の甥として秀吉の近くで育ち、秀頼誕生によって政権内の位置を変えられた近親大名。

小早川家の当主

毛利一門の家名、筑前の大領、異なる出自の家臣団を若くして引き受けた九州大名。

関ヶ原後の岡山城主

勝敗を動かした功で大領を得て、城と城下を急いで再編しながら、完成を見る前に死んだ領主。

場所でたどる秀秋

大坂・京都秀吉の養子として育ち、高い官位を得た豊臣政権の中心。
名島城小早川家を継いだ秀秋の本拠。博多湾と朝鮮への海路を押さえる筑前支配の中心。
朝鮮半島慶長の役で渡海し、蔚山城救援などに関わった侵攻戦争の現場。
越前北ノ庄1598年に移された新領。大幅な領地変更が秀秋の不安定な立場を示します。
伏見城1600年に西軍側として攻撃へ加わった城。決戦前の所属を考える場所。
松尾山関ヶ原を見下ろす標高293メートルの山城。決戦前日に秀秋軍が入りました。
山中・大谷陣秀秋軍が攻撃し、西軍崩壊の起点となった関ヶ原南西部。
佐和山城関ヶ原後に攻撃へ加わった石田三成の本拠。東軍協力が戦後まで続いた場所。
岡山城戦後の本拠。城・外堀・城下を整えましたが、統治は2年足らずで終わりました。

よくある誤解を整理

  • 「秀吉の実の甥」ではなく、秀吉正室・高台院の甥
  • 小早川隆景の実子ではなく、豊臣家から迎えられた養子
  • 小早川家継承は左遷だけでなく、豊臣と毛利を結ぶ政治的な養子縁組
  • 朝鮮での勇戦と三成の讒言だけで、越前転封の理由を確定できない
  • 関ヶ原直前まで完全な東軍だったのではなく、西軍の伏見城攻撃にも参加した
  • 一方、決戦前から家康側との交渉があり、当日突然思いついた転身でもない
  • 松尾山は単なる野営地ではなく、西軍が整備した大規模な山城
  • 「問鉄砲」は有名な逸話だが、確実な同時代の実況として断定できない
  • 西軍崩壊は秀秋一人だけでなく、脇坂ら複数隊の転身が連鎖した結果
  • 1602年の死因を大谷吉継の祟りや狂気とする証拠はない

小早川秀秋から何が見えるか

秀秋の生涯からは、戦国大名の「家」が血縁だけで続いていたわけではないことが見えます。木下家に生まれ、豊臣家の養子となり、小早川家を継ぐ。十五年ほどの間に三つの家をまたいだ経歴そのものが、秀吉政権の家族政策でした。

また、関ヶ原は東西の忠義が最初から固定された戦いではありません。伏見では西軍として戦い、開戦前には東軍と交渉し、松尾山で戦況を見ながら攻撃へ移る。領国と家臣団を抱える大名の選択が、全国政権の勝敗に直結した戦いでした。

そして戦後の岡山を追うと、「裏切った瞬間」で物語は終わりません。勝利の報酬として新領を得た大名は、城を直し、町を囲い、人を動員して統治を始めます。秀秋の場合、その時間があまりに短く、戦場での一日だけが後世の記憶に残りました。

次に読むページ

10問クイズ

Q1. 秀秋は秀吉とどのような親族関係だった?

A. 秀吉正室・高台院の甥です。秀吉の血縁上の甥ではありません。

Q2. 秀吉の養子時代に名乗った名は?

A. 羽柴秀俊です。

Q3. 秀秋の二人目の養父は?

A. 小早川隆景です。

Q4. 小早川家継承後の九州の本拠は?

A. 筑前の名島城です。

Q5. 秀秋が渡海した豊臣政権の戦争は?

A. 朝鮮出兵のうち、1597年に始まる慶長の役です。

Q6. 関ヶ原前に西軍側で参加した攻城戦は?

A. 伏見城の戦いです。

Q7. 関ヶ原で秀秋軍が布陣した山は?

A. 松尾山です。

Q8. 秀秋軍が最初に攻撃した西軍の部隊は?

A. 大谷吉継の部隊です。

Q9. 「問鉄砲」は確実な同時代記録?

A. いいえ。後世に有名になった逸話で、確実な実況としては断定できません。

Q10. 関ヶ原後に与えられた領国は?

A. 備前・美作51万石で、岡山城へ入りました。

参考資料