今川仮名目録を定める
氏親は1526年に33か条の今川仮名目録を定めました。家臣同士の争い、土地をめぐる問題、裁判などを扱う基準を示し、当主を中心に領国をまとめようとしたものです。
家臣団
家臣の行動や争いに、共通する判断の枠組みを与えました。
土地・裁判
土地をめぐる問題や裁判を扱う際の基準を示しました。
当主の役割
当主を軸に、駿河の領国を運営する仕組みを整えました。
合戦の勝敗だけでなく、領国を安定して動かす仕組みから今川氏の強さを読むことができます。
義元へ受け継がれる領国経営
氏親が整えた仕組みは、子の義元に引き継がれます。義元は1553年に今川仮名目録追加を定め、駿河・遠江・三河へ広がる領国を動かしました。氏親から義元へつなげて読むと、今川氏の強さが合戦だけにあったのではないことが見えてきます。
幼い当主から、駿河・遠江を動かす大名へ
1476年、父・今川義忠が遠江で戦死した時、氏親はまだ幼少でした。家督をめぐる争いでは母方の叔父にあたる伊勢盛時(のちの北条早雲)の支援を受け、成長後に駿河今川氏の当主として自立します。早雲の働きだけで家督が決まったと単純化せず、駿河の家臣団と幕府の承認を含む長い調整として見る必要があります。
氏親が変えたのは、法律だけではない
今川仮名目録は氏親の仕事を象徴しますが、法律だけで戦国大名になったわけではありません。遠江への軍事進出、検地、家臣団の統制、裁判権の集中が重なり、室町幕府から任命された守護という立場を越えて、領国内で独自に命令を実行できる支配を築きました。
氏親は1526年に没し、嫡男の氏輝が継ぎます。氏輝の早世後に家督争いが起こり、勝ち残った義元が領国をさらに広げました。氏親から義元へ一直線に継承されたのではなく、寿桂尼の支えと花倉の乱を挟んだことまで見ると、今川家の制度と家族関係の両方が分かります。
今川三代と東海の変化をたどる
氏親が整えた領国経営は、義元の拡大と氏真の危機へ続きます。人物・制度・外交を行き来すると、駿河今川氏の盛衰がつかみやすくなります。