長尾景春とは?
山内上杉家の家宰(当主に代わって家を仕切る筆頭家臣)の家に生まれ、父の死後に家宰職を叔父に奪われたことから1477年に主君・上杉顕定に反乱を起こし、鉢形城を拠点に山内上杉家を二分したが太田道灌に鎮圧され、その後も一貫して顕定に敵対し続けた武将。
家宰の家——祖父と父が、山内上杉家の権益を握っていた
長尾景春は1443年ごろ、山内上杉家の家宰・長尾景信の嫡男として生まれた。祖父の長尾景仲は長尾一族の長老格で、当主・憲忠を擁立した立役者として家宰に就いた人物である。母は越後の長尾氏の娘とみられ、父の妹の夫が太田道灌である。通称は祖父以来の孫四郎。景春が生まれた11年後に享徳の乱が始まり、上杉方を実際に率いたのは祖父と父だった。
家宰とは 当主に代わって決めた、筆頭家臣
家宰は山内上杉家の筆頭家臣で、当主に代わって家の政務を取り仕切り、上野や武蔵の支配でも当主を代行した。家来から当主への願いも当主の決定も、すべて家宰を通ったので、主家の決定は事実上家宰が下していた。享徳の乱のような戦争では、敵から没収した所領を配分するのも家宰の仕事で、景仲・景信は味方した家臣に優先して分け与え、大きな勢力を作った。
二代の世襲 家宰が代われば、権益はすべて動く
1444年に家宰になった景仲は、1461年ごろ嫡男の景信に職を譲り、世襲の姿勢を示した。家宰が別の家に代われば、配分された権益はすべて別の勢力に移る。家宰の交代は、家の内部の主導権を丸ごとひっくり返す出来事だった。1458年ごろから上杉方の本陣は武蔵の五十子にあり、景春が姿を見せるのは1467年、25歳ごろからである。
奪われた家宰職——叔父に渡された職と、柴郷の年貢
1473年、父・景信が五十子の陣中で死んだ。景春は家督を継いだが、当主の上杉顕定は、家宰職を景春ではなく景信の弟・長尾忠景に与えた。忠景が正式に家宰へ就いたのは、景信の死から一年半ほど後の1474年までのことになる。顕定は越後の上杉氏から山内上杉家に迎えられた養子で、この養子縁組を進めたのは景春の父・景信だった。
1474年 道灌の調停——忠景は、二つの職を手放さなかった
父の死後、叔父の忠景は、家宰に次ぐ二番手の武蔵守護代(武蔵の軍事を仕切る役)を握ったまま、1474年12月までに正式に家宰に就いた。慣例では、武蔵守護代が家宰に上がるときは守護代を別の人に譲るものだった。景春の叔母の夫・太田道灌は、忠景が家宰になるのは仕方ないとして、武蔵守護代を景春に渡す案で両者の仲裁に動いたが、顕定と忠景は拒み、景春には何の権益も渡さなかった。景春をかばう道灌の動きは顕定・忠景の不信を招き、山内上杉家の首脳と道灌の間に溝ができた。
1476年6月 五十子を離れて、鉢形城を築いた
1476年6月、景春は五十子陣を退いて武蔵の鉢形に城を築いた。荒川と深沢川に挟まれた断崖の上で、上州・信州へ通じる要所だった。同年3月、道灌は主家の都合で駿河へ出陣しており、その隙を突いた動きだった。前年ごろ、道灌は景春が謀反を企てていると顕定と忠景に注進していたが、噂の段階では動かないという当時の考え方から、二人は相手にしなかった。顕定と忠景は、本陣を離れた景春を失脚したものと判断し、強気に出る。
12月・柴郷 年貢の引き渡しが、火種になった
同じ1476年の12月、家宰の所領だった武蔵の柴郷をめぐって争いが激しくなった。柴郷は家宰の交代とともに景春から忠景に引き渡されるはずだった。ところが景春の下級の奉公人が一人、柴郷に居残ったまま年貢を受け取り続け、忠景が自分に払えと求めても、村は「景春の家来が今ここにいる」と応じなかった。忠景は合戦覚悟で軍勢を送り、景春の家来は抵抗せず柴郷を退いて鉢形城の景春のもとへ移る。こうして忠景が柴郷を押さえたのが12月で、景春が兵を挙げるのはその翌月だった。
五十子攻撃——本陣を落とし、山内上杉家を真二つにした
1477年正月、景春は上杉方の本陣・五十子陣を攻撃した。在陣していた主君の顕定、家宰の忠景、扇谷上杉家の当主・定正は上野へ敗走し、五十子陣は崩壊する。主君に刃を向ける名分を整えるため、景春は上杉方と戦っていた古河公方・足利成氏に支援を求め、表向きは足利方として行動した。
味方した勢力 宿老の半分以上が、景春に付いた
1477年の蜂起では、山内上杉家の宿老の長尾も大石も、3家のうち2家が景春に付いた。長尾では景春の家と足利長尾(長尾氏のもとの嫡流)、大石では葛西と二宮である。上野の家臣の筆頭格・長野氏、武蔵の長井氏と成田氏、江戸周辺の豊島氏、江戸近くに拠っていた武蔵千葉氏の実胤、相模の金子・海老名・本間氏、甲斐の加藤氏も動いた。祖父と父の代に恩を受けた領主たちが一斉に蜂起し、山内上杉家は真二つに割れた。
残った側 南関東で健在だったのは、道灌だけだった
1477年正月の敗走で、上杉方の首脳はすべて上野に退き、武蔵と南関東に残ったのは、調停で景春をかばって以来、顕定・忠景に疑われて江戸城に籠っていた太田道灌だけだった。扇谷上杉家の家宰でありながら、上杉方全体の反乱鎮圧を主導したのは道灌だった。道灌は、景春に付いた領主を寝返らせるため「彼らの権益をそのまま保証してほしい」と顕定に求め、顕定は承認したが実行しなかった。奪われた権益はすでに顕定方の味方へ配り直されており、寝返った者に元の権益を認めたくても認められなかった。
道灌との3年——用土原、鉢形、御嶽城、そして日野城
1477年3月、道灌は相模と南武蔵の景春方を鎮圧し始め、4月に江古田原で豊島氏を破った。5月、上野の首脳を武蔵へ迎え入れるために北武蔵へ進軍する。景春は自らこれを迎え撃った。
1477年5月 用土原——本隊で戦って、敗れた
1477年5月、鉢形と五十子の周辺に主力を展開していた景春は、用土原で道灌と戦い、敗れて五十子付近まで後退した。上杉方にも有力者の死者が出る激戦だった。7月、成氏が景春支援のため上野へ進軍し、戦線は北関東に移る。
1478年 鉢形落城——成氏に見限られ、秩父へ
1478年正月2日、成氏と上杉方が和睦した。上杉方は景春を「自分の家来のもめ事」として追討を続ける。成氏は本拠の古河へ帰ろうとしたが、景春たちがこれを帰さず、成氏は武蔵の成田(今の埼玉県行田市)に在陣したままだった。7月17日、成氏は景春と断交し、討伐を上杉方に要請する。翌日、道灌に攻められて景春は敗れ、秩父・児玉へ逃れた。鉢形城は落城し、顕定が入って本拠にする。以後、顕定は「鉢形様」と呼ばれた。
1479年 御嶽城——児玉で再び立ち、また敗れた
1479年閏9月、景春は秩父から進出して児玉郡で再び蜂起した。拠点は「長井城」と呼ばれ、金鑚御嶽城(今の埼玉県神川町)とみられる。11月、道灌が北武蔵へ進軍し、1480年1月、景春は越生で扇谷上杉方に敗れて秩父へ後退、御嶽城は落城した。景春の勢力は秩父郡に閉じ込められる。
1480年 日野城——最後の拠点を落とされ、乱は終わった
1480年5月、顕定は秩父に残る景春の勢力を一掃するため秩父郡へ進軍し、6月には道灌も加わった。景春は鉢形を失ったあと塩沢城(今の埼玉県小鹿野町)、次いで熊倉城に拠ったと伝わる。6月24日、景春が籠る日野城(熊倉城)が道灌に攻め落とされ、長尾景春の乱は終結した。景春は成氏を頼って落ち延びた。
敗北のあと——別の当主を担ぎ、それも消えた
秩父から没落したあとも、景春は顕定への敵対をやめなかった。足利方という名分は、成氏が顕定と和睦したことで使えなくなる。そこで景春は、顕定に代わる山内上杉家の当主を立てる方向に戦略を変えた。
1481年4月 顕定の養子・憲房を担いだ
1481年4月、景春は、顕定の養子になっていた憲房を擁立して顕定方に対抗した。憲房は先代の関東管領・上杉房顕の甥で、元服直後だったとみられる。顕定に代わって憲房を当主に据える、という名分で戦いを続けたが、具体的な経過はこれ以上分かっていない。
1482年11月 都鄙合体で、行き場を失った
1482年11月、幕府と成氏の和睦(都鄙合体)が成立し、享徳の乱が終わる。憲房はこれを機に顕定のもとへ戻り、景春は単独での行動をとらなくなって、成氏に従うことになった。反乱の名分も、担ぐ当主も、ここでなくなった。
顕定と戦い続けた——両上杉の争いで扇谷に付き、顕定への敵対を貫いた
1486年、道灌が主君・扇谷上杉定正に殺され、翌1487年、山内上杉家と扇谷上杉家が戦端を開いた(長享の乱)。このころの景春は、特定の地域を支配する領主ではなく、扇谷上杉家に雇われる傭兵隊長のような立場だった。
長享の乱 扇谷に付いて、顕定と戦った
1487年に始まった長享の乱で、景春は扇谷上杉家に加担した。1488年には、扇谷上杉方として陣を張り顕定に対抗していたことが、顕定の出した感状からうかがえる。乱は途中の休戦を挟んで18年続き、1505年3月、本拠の河越城を囲まれた扇谷上杉朝良が顕定に降伏して終わる。この間に景春がどこに拠っていたかは、史料では確定できない。
永正の乱 顕定が越後で討死した
1506年、古河公方家の内紛から永正の乱が始まる。越後では、顕定の生家である越後上杉家の守護代・長尾為景が、主家の当主で顕定の実弟の上杉房能を攻めて自害させていた。1509年、顕定はその仇を討つとして越後へ出陣し、翌1510年に討死する。この乱のなかで景春がどう動いたかは、ここで使った資料では確かめられない。景春は1514年に没したと伝わる。
景春が残したもの——上杉の衰退、鉢形城、その後の長尾家
景春の反乱は、家宰という役職に権益が集まる仕組みが生んだ。祖父と父が二代で作った勢力は、家宰の交代でそのまま敵に回る。景春に味方した領主たちも、同じ仕組みで権益を奪われた人々だった。
上杉の衰退 家の分裂が、山内上杉家を弱らせた
景春の乱は、上杉方の中心だった山内上杉家の内部の分裂から始まったため、そのまま山内上杉家の弱体化につながった。五十子陣の崩壊で享徳の乱の前線は消え、道灌の死で両上杉が争い、その争いの中で北条氏が伊豆から相模へ進んだ。
鉢形城 景春が築いた城が、北関東の要になった
1476年に景春が築いたと伝わる鉢形城は、景春を追った顕定の本拠になり、のちに北条氏康の四男・氏邦が整備拡充して北関東支配の拠点になった。景春が築いて2年足らずで失った城は、景春の死後も北関東の要であり続けた。
その後の長尾家 家は続き、1590年に白井城を明け渡した
白井城主の長尾家は、景春のあと景英・景誠・憲景・輝景・景広と代を重ねた。1590年、豊臣秀吉の小田原攻めで前田利家・上杉景勝の軍を前に、白井城を開城した。
長尾景春の疑問に答える
なぜ顕定は、景春を家宰にしなかった?
顕定本人の言葉は残っていない。家宰の指名にあたっては、長尾氏とは別の宿老・寺尾憲明と、顕定の側近・海野佐渡守が忠景を推し、顕定はそれを受け入れた。忠景は家臣の序列で家宰に次ぐ二番手だったので、忠景を選ぶことにも理はあった。加えて顕定にとって、自分を養子に迎えて担いだ景春の家は煙たかったとみられる。
景春は「白井長尾氏」?
戦国時代の呼び名である。白井城(渋川市)は利根川と吾妻川の合流点に築かれた平山城で、本丸の構造が五十子陣と似ていることから、祖父・景仲の時代の築城と推定される。ただし景春の代に白井を本拠にしていたかは確かめられておらず、確実に白井を本拠にしたのは子の景英からとみられる。白井城そのものを景春が握っていたことと、そこを本拠にしていたかどうかは、別の話である。同じく忠景の家を「総社長尾氏」と呼ぶのも後の呼び方で、忠景の家が総社に本拠を置いたと確認できるのは孫の代からである。
連歌師の宗祇と関係がある?
連歌師の宗祇が、連歌の書「吾妻問答」を景春に与えたという話がある。ただし景春自身の連歌作品は、今のところ確認されていない。道灌の作品はある程度残るが、この時代の関東のものはそれほど残っていない。
現地に何が残っている?
鉢形城跡(埼玉県寄居町)は国指定史跡で、鉢形城歴史館がある。五十子陣跡(本庄市)は遺構が残らず解説看板が立つ。秩父市の熊倉城跡には空堀が残る。上野の白井城址(渋川市)には五重の空堀と土塁がめぐり、近くの空恵寺の裏山に長尾氏累代の墓として17基の供養塔が並び、景仲・景春(法名は伊玄)らの台石が確認できる。
参考にした資料
- 寄居町 鉢形城歴史館「長尾景春と鉢形城」講座録(生年の推定・家族関係・顕定が越後上杉氏から入った養子であること・景仲の家宰就任の経緯・家宰と権益配分の仕組み・家宰職の継承と寺尾憲明・海野佐渡守の推挙・武蔵守護代と道灌の調停・柴郷の紛争・1476年の五十子退陣・1477年の五十子攻撃と味方した勢力・用土原・1478年正月の和睦と成氏の断交・鉢形落城・御嶽城・1480年の秩父進軍と日野要害の攻略・憲房擁立・都鄙合体後・傭兵隊長のような立場・呼称と本拠・宗祇と連歌・家宰が上野と武蔵の支配でも当主を代行し主家の決定を事実上下していたこと・その後も一貫して顕定に敵対したこと)
- 寄居町「鉢形城公園案内」(1476年の築城と伝わること・地形・北条氏邦の整備・国指定史跡)
- 寄居町 鉢形城歴史館 企画展パンフレット「鉢形城主 上杉顕定」(1488年の顕定の感状から景春が扇谷上杉氏方として陣を張っていたことがうかがえること・越後守護代の長尾為景が顕定の実弟の房能を攻めて自刃させたこと・顕定がその仇を討つとして越後へ出陣し1510年に長森原で討死したこと)
- 渋川市「旧子持村地区の指定文化財」(白井城址の立地と築城年代の推定・五重の空堀・景春のあと景英から景広までの代替わりと1590年の開城・長尾氏累代の墓と景春の台石)
- 埼玉県「重要遺跡一覧」(熊倉城跡の空堀・塩沢城跡に拠ったという伝承)
- さいたま市「岩槻城跡を探る 調査レポート②-2 太田窪と岩槻城 中編の上」(景春の乱が山内上杉氏の弱体化につながったこと・武蔵千葉氏実胤が景春方に付いたこと・長享の乱の休戦と1505年3月の終結・1506年の永正の乱の始まり・1509年の顕定の越後侵攻)
- 伊勢原市「いせはらの歴史 室町時代」(1480年の日野城攻略で乱が終結・長享の乱の開始)
- 中野区「江古田原沼袋合戦古戦場」(1477年4月の江古田原の合戦)
- 本庄市「『五十子の陣』の史跡について」(五十子陣跡の現状)
- 柏市「酒井根原の合戦〜太田道灌、襲来〜」(景春の生没年1447〜1514の一説)