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関東管領かんとうかんれい

関東管領とは?

関東管領とは、鎌倉公方を補佐した室町幕府の役職のことです。上杉氏が代々務めましたが、関東管領の任命権は幕府にあったため、鎌倉公方かまくらくぼうとしばしば衝突しました。戦国時代には北条氏に押されて衰え、1561年に上杉憲政が越後の長尾景虎(上杉謙信)へ職を譲ります。

14世紀、鎌倉公方の補佐役として上杉憲顕が執事に就き、のちに関東管領と呼ばれます。上杉氏は鎌倉の屋敷の名から四つの家に分かれます。
1416年の上杉禅秀の乱で犬懸上杉家が力を失い、やがて山内上杉家が関東管領を世襲します。
1438年の永享の乱、1454年の享徳の乱きょうとくのらんと、補佐するはずの鎌倉公方と二度にわたって戦います。
内紛で力を削られ、1546年の河越合戦で北条氏康ほうじょう うじやすに大敗。1552年、本拠の平井城を失った上杉憲政は越後へ逃れます。
1561年、憲政は長尾景虎(上杉謙信)に職と家督を譲ります。関東管領を務めた山内上杉家は、謙信が最後の当主になりました。

関東執事——鎌倉公方の補佐役として始まり、上杉氏が四家に分かれた

1336年に足利尊氏が幕府を開くと、関東を治めるために鎌倉に役所「鎌倉府」が置かれ、長官の鎌倉公方には尊氏の子が就いた。その補佐役として置かれたのが関東執事しつじで、のちに関東管領と呼ばれるようになる。初代鎌倉公方・足利基氏が幼くして鎌倉に下ると、上杉憲顕のりあきが執事としてこれを補佐した。

仕組み 任命するのは公方ではなく、幕府だった

関東管領は鎌倉公方の下に置かれた役だが、任命権は幕府・将軍にあった。公方の補佐役であると同時に、幕府から任じられて関東に置かれた役でもある。公方と幕府の間がこじれたとき、この役は幕府の側に立つことになる。

上杉四家 鎌倉の屋敷の名で分かれた

上杉氏は室町時代のうちに、鎌倉に構えた屋敷の場所の名から、山内やまのうち・犬懸いぬかけ・扇谷おうぎがやつ・宅間たくまの四家に分かれた。憲顕の家が山内上杉家で、鎌倉の山内には今も「管領屋敷」の地名が残る。

山内の独占——禅秀の乱で犬懸が倒れ、やがて関東管領は山内の家になった

1416年(応永23年)、前の関東管領で犬懸上杉家の上杉禅秀ぜんしゅう(氏憲うじのり)が、鎌倉公方・足利持氏に反乱を起こした。禅秀が討とうとしたのは持氏と、その時の関東管領で山内上杉家の上杉憲基のりもとだった。

禅秀の乱 一時は鎌倉を制圧した

禅秀の軍は一時鎌倉を制し、持氏は駿河へ逃れた。だが幕府の命を受けた駿河の今川氏らの軍が攻め下ると禅秀方は崩れ、翌1417年正月、禅秀は一族とともに鎌倉で自害した。犬懸上杉家はこの敗北で力を失った。

四家のその後 山内が宗家、扇谷が次ぐ家に

15世紀前半から、関東管領は山内上杉家が世襲するようになる。山内上杉家は上杉氏の宗家として上野を地盤とし、上野の守護を務めた。のちの当主・顕定あきさだは、武蔵と伊豆の守護も兼ねている。家の政務は家宰の長尾氏が当主に代わって取り仕切り、上野や武蔵の支配でも当主の代わりを務めた。家臣の序列では家宰が第一、武蔵の守護代が第二だった。扇谷上杉家は山内に次ぐ家として続き、のちに家宰・太田道灌おおた どうかんのもとで勢力を大きく伸ばしていく。宅間上杉家は相模の永谷ながや(今の横浜市)に拠り、小さな家として残った。

公方との衝突——補佐役と主君が、二度戦った

4代・足利持氏の代から、鎌倉公方は幕府との対立を深めていた。幕府から任命される補佐役は、そのたびに幕府の側に立つことになる。

1438年 永享の乱——憲実が平井城へ退いた

1438年、幕府と対立を深める鎌倉公方・足利持氏を諫めた関東管領・上杉憲実のりざねは、持氏とも決裂して身の危険を感じ、鎌倉から本拠の上野・平井ひらい城に退いた。一説に、平井城はこのとき憲実が家臣に築かせたという。幕府は憲実を支持して兵を送り、翌1439年、持氏は自害した。

1454年 享徳の乱——憲忠が殺され、28年の内戦に

持氏の遺児・足利成氏しげうじが鎌倉公方に復帰すると、1454年、今度は成氏が関東管領・上杉憲忠のりただを殺害した。上杉方は幕府に訴え、28年に及ぶ内戦になる。上杉方は武蔵の五十子いかっこに陣を構え、古河に移った成氏と長く対峙した。

衰退——内紛で削られ、河越で敗れ、平井城を失った

享徳の乱のさなかから、関東管領の力は内側から削られていく。そこへ、伊豆から興った北条氏が南から迫った。

内紛 家宰の反乱と、山内対扇谷

1477年、家宰の職を継げなかった長尾景春かげはるが反乱を起こし(長尾景春ながお かげはるの乱)、家の内側の分裂がそのまま山内上杉家を弱らせた。鎮圧で活躍した扇谷上杉家の家宰・太田道灌のもとで、扇谷上杉家は勢力を大きく伸ばす。1487年からは山内と扇谷が18年争い(長享の乱)、永正の乱では山内の当主・顕定あきさだが越後で討死した。そのあとも家督争いが続き、関東管領は統率の力を弱めながら、上野の平井城や武蔵の鉢形城を拠点に勢力を保っていた。

1546年 河越合戦——連合軍が、北条氏康に大敗した

1545年、関東管領・上杉憲政のりまさは扇谷上杉家の当主・朝定ともさだとともに、奪われた河越城を取り戻すため大軍で包囲した。翌1546年4月、古河公方こがくぼうも加わった連合軍は北条氏康に大敗し、扇谷上杉家は断絶に至った。憲政は本拠の平井城へ退いた。この戦いは「河越夜戦」の名で知られるが、これは俗な呼び名で、川越市は1537年の河越攻めに始まる一連の戦いを「河越合戦」と呼んでいる。

1552年 平井城を失い、憲政は越後へ逃れた

河越の敗戦のあとも、北条氏康は平井城へ攻め寄せた。1552年2月から3月、北条氏が平井城に近い武蔵の御嶽城を落とすと、憲政に味方していた上野の国衆くにしゅうの離反が相次ぎ、憲政は平井城を退いた。地盤を失った憲政は越後へ移り、越後守護代の長尾景虎かげとらを頼った。

謙信へ——最後の関東管領と、途絶えた山内上杉家

越後に逃れて9年、1561年閏3月、憲政は景虎を養子とし、鎌倉の鶴岡八幡宮で山内上杉家の家督と関東管領の職を譲った。将軍・足利義輝あしかが よしてるの内諾も得て、景虎は上杉政虎まさとら——のちの上杉謙信と名乗る。

関東管領・謙信 関東出兵の旗印になった

謙信は関東を取り戻すという大義を掲げて何度も関東へ出兵し、1561年には北条氏の本拠・小田原城を包囲するまで迫ったが、攻めきれずに引き揚げた。その後も武蔵とその周辺では北条氏の支配が固まっていく。上杉の名は越後の長尾家の出である謙信が継いだが、謙信の急死後に跡を継いだ景勝は、関東管領の上杉家を継いだとはみなされない。関東管領の上杉家は、謙信が最後になった。

憲政の最期 上杉の家督争いの中で死んだ

謙信は越後に憲政の館・御館おたてを建てた。1578年に謙信が急死すると、養子の景勝かげかつと景虎の家督争い(御館の乱おたてのらん)が起きた。翌1579年、景虎は講和を図って憲政と自分の子・道満丸どうまんまるを春日山へ送ったが、景勝方は二人を殺した。山内上杉家を謙信に譲った憲政は、上杉の名を継いだ家の争いの中で死んだ。

関東管領の疑問に答える

京都の管領と、何が違う?

仕える相手と担い手が違う。京都の管領は将軍の補佐役で、三管領さんかんれい(細川氏・斯波氏しばし・畠山氏)の三家から将軍が一人を選んだ。関東管領は鎌倉公方の補佐役で、上杉氏が世襲した。名前と役割の型は同じで、鎌倉府が京都の幕府の仕組みを写したものになる。

上杉謙信は、なぜ関東管領になれた?

職だけでなく、山内上杉家そのものを譲られたからになる。もとの名は長尾景虎で、越後守護代の長尾家の出身。越後に逃れてきた憲政に頼られ、1561年に養子として山内上杉家の家督ごと職を受け継いで、上杉政虎と名乗った。

現地に何か残っている?

本拠だった平井城跡(群馬県藤岡市)は県指定史跡で、発掘調査をもとに16世紀中頃の姿で整備されている。憲政の館だった御館の跡は、上越市の御館公園になっている。鎌倉の山内には、山内上杉家の屋敷にちなむ「管領屋敷」の地名が残る。

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参考にした資料