事件ページ / 北条最大級の支城が一日で落ち、1590年の関東の流れを決定づける

八王子城の戦い

八王子城の戦いは1590年6月23日、豊臣秀吉による小田原征伐の一環として、前田利家・上杉景勝らの軍が八王子城を攻めて落とした戦いです。城主の北条氏照は小田原城に籠城しており、八王子城には主だった家臣や兵も多く残っていませんでした。関東屈指の山城が短期間で失われたことは、北条氏が広い支城網を維持できなくなったことを示します。八王子城の落城は、小田原城の開城へ向かう大きな転機です。

1590年6月23日前田利家・上杉景勝北条氏照は小田原一日で落城
強い城でも、城主と主力がいなければ同じようには守れない。八王子城の戦いは、城そのものの強さだけでなく、誰が城に残り、どの城とつながっているかが大事だと教えてくれます。
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八王子城の戦いの要点

1590年、小田原征伐で豊臣方は小田原城だけでなく、北条氏の支城を各地で攻めます。6月14日には北関東の鉢形城が開城し、6月23日には武蔵西部の八王子城が攻められます。

八王子市は、前田利家・上杉景勝軍の攻撃によって八王子城が一日で落城したことを、籠城中の小田原城が開城へ向かう決め手として整理しています。氏照は小田原にいたため、城を守ったのは残された家臣、地域の人々、職人、僧侶などでした。

まずは一本の流れで置く

  1. 1590年春、秀吉が小田原北条氏を討つため、全国の大名を動員する。
  2. 氏照は主だった家臣や兵を連れて小田原城に入り、北条家全体の籠城に備える。
  3. 前田利家・上杉景勝らの豊臣方が、北関東から北条の支城を攻め進む。
  4. 6月14日、鉢形城が開城する。
  5. 6月23日早朝、豊臣方が八王子城を攻撃する。
  6. 八王子城は一日で落城する。
  7. 氏照は小田原城に残り、開城後に兄の氏政とともに切腹する。
  8. 北条氏の関東支配が終わり、家康の関東入封へ進む。

誰が、どこにいたのか

北条氏照八王子城の城主ですが、落城時は小田原城に籠城中です。北条家全体の戦いと、自分の支城の防衛が分かれてしまいます。
八王子城の守備側氏照の主だった家臣や兵が小田原へ向かった後、古くからの家臣、城周辺から集められた人々、職人、僧侶などが城に残ったとされています。
前田利家豊臣方の有力大名。北国方面から進み、八王子城を攻める軍の中心になります。
上杉景勝前田利家とともに北条方の城を攻める上杉家の当主。かつて北条と関東を争った上杉が、1590年には豊臣方として攻める側になります。
鉢形城氏邦が守る北関東の重要拠点。八王子城より先に開城し、北条の北側の支城網が崩れ始めます。
八王子城氏照が築いた大きな山城。城下・御主殿・山上の要害を持つ一方、1590年には完成から間もない時期でした。

なぜ八王子城が攻められたのか

小田原だけを攻めない

秀吉軍は小田原城に正面から集中するのではなく、北条氏の支城を同時に攻めます。小田原を外から支える城を減らすためです。

武蔵西部の重要拠点

八王子城は、氏照が武蔵西部・相模西部の一部を支配する中心でした。ここを失えば北条の西側の支配が大きく揺らぎます。

北からの豊臣軍

前田・上杉らは北関東から入り、鉢形城、八王子城と北条方の拠点へ向かいます。小田原は多方向から孤立していきます。

城が孤立する

城が強くても、周囲の支城が落ち、本拠の小田原も包囲されると援軍や物資の見通しが厳しくなります。

なぜ一日で落城したのか

八王子城は険しい山を使った大きな城です。しかし、1590年には城主の氏照が小田原に入り、主だった家臣や兵もそちらへ集まっていました。城の守備は、城そのものの規模だけで決まりません。

八王子市の資料は、氏照がいない城に、残された家臣、城周辺から集められた民や職人、僧侶、神主などが残って豊臣軍と戦ったと説明しています。さらに、城は築城から十年に満たず、未完成の部分があったと考えられています。大軍の攻撃に対し、城主と主力を欠いた状態で防ぎ続けるのは難しかったのです。

鉢形城と八王子城を比べると

鉢形城

氏邦が城にいて、1か月余り籠城します。最後は城兵の助命を条件に開城しました。

八王子城

氏照は小田原におり、城は一日で落城します。残された守備側の厳しさが表れます。

共通点

どちらも北条の支城ネットワークを支えた大きな拠点で、豊臣方は小田原から離れた城を先に切り離します。

小田原への意味

北と西の重要な支城を失うことで、小田原城は関東全体を守る拠点ではなく、孤立した最後の城へ近づきます。

氏照が城にいなかった意味

氏照が八王子城にいなかったことを、「城主が逃げた」と単純に見る必要はありません。1590年の北条氏は、秀吉の大軍と向き合うため、当主の氏直・氏政・氏照らが小田原城に集まって家全体の籠城を支える必要がありました。

しかし、その選択は各地の支城に主力を置けないことも意味します。小田原に人を集めれば、八王子や鉢形を守る側は薄くなる。八王子城の戦いは、北条氏が広い関東を守るには戦力が足りなくなったことを示す場面です。

八王子から江戸へ、何が残った?

1580年代
氏照が八王子城を築き、武蔵西部の新しい拠点にします。
1590年6月14日
鉢形城が開城します。
1590年6月23日
八王子城が落城します。
1590年7月
小田原城が開城し、氏照と氏政が切腹します。
1590年後
徳川家康の関東入封。江戸幕府は八王子を江戸西方の防衛・交通の要地として整え、氏照の城下町や市の一部も引き継がれていきます。

ここだけ覚える

  • 八王子城の戦いは1590年6月23日、小田原征伐の一環で起きた。
  • 前田利家・上杉景勝らの豊臣軍が攻め、八王子城は一日で落城した。
  • 城主の氏照は小田原城にいて、八王子城には主だった家臣や兵が少なかった。
  • 鉢形城の開城に続く八王子城落城で、北条の支城ネットワークは大きく崩れる。
  • 八王子城の落城は、小田原城の開城へ向かう大きな転機になる。

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5問クイズ

Q1. 八王子城の戦いが起きた年は?

A. 1590年です。

Q2. 八王子城が落城した日は?

A. 6月23日です。

Q3. 攻めた豊臣方の有力大名二人は?

A. 前田利家と上杉景勝です。

Q4. 落城時、城主の氏照がいた城は?

A. 小田原城です。

Q5. 八王子城より先に開城した北関東の大きな支城は?

A. 鉢形城です。

参考にした資料