事件ページ / 小田原城を攻めきれなかった信玄と、帰路を止めたい北条軍が峠でぶつかる

三増峠の戦い

三増峠の戦いは1569年、武田信玄が小田原城を攻めた後、甲斐へ帰る途中に北条軍と戦った合戦です。小田原城は落ちず、北条側は武田軍の退路を三増で止めようとしました。北条氏照・氏邦らが前線を担い、武田軍は部隊を分けて峠を越えようとします。武田軍は突破して帰還に成功しましたが、北条側にとっても「城を守る」だけでなく、関東の各地で軍を動かす仕組みが試された戦いでした。

1569年武田信玄北条氏政・氏照・氏邦小田原攻めの帰路
小田原城は落ちない。だが、戦いは城の外で終わらない。三増峠は、城を守る力と、退く敵を峠で止める力が別物だと分かる戦いです。

関東ルートの中盤では「同盟が崩れた後の実戦」

三増峠は、甲相駿三国同盟が崩れた後、北条と武田が再び戦場で向き合う場面です。1569年の戦いを氏康と信玄の一騎打ちのように見るのではなく、氏康が作った北条の仕組みを、当主の氏政と弟たちが使って武田軍を迎えた戦いとして置くと、その後の北条の強さと課題が見えます。

  1. 河越合戦 ― 氏康が関東で力を伸ばす
  2. 甲相駿三国同盟 ― 武田・今川と国境を安定させる
  3. 1568年、武田の駿河侵攻で三者の関係が崩れる
  4. 1569年、武田信玄が小田原城を攻める
  5. 三増峠の戦い ― 氏照・氏邦らが武田軍の帰路を止めようとする
  6. 北条氏政の時代へ ― 北条は武田との緊張を抱えながら関東を守る
  7. のちに小田原征伐で北条の関東支配が終わる
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三増峠の戦いの要点

1569年10月、武田信玄は小田原城を包囲します。しかし城を落とせず、数日後に引き上げます。北条方は、甲斐へ帰る武田軍を三増峠の周辺で待ち受けました。

神奈川県の現地解説では、北条氏照・氏邦の軍が三増で武田軍を待ち、武田方は軍を分けて高所から動いたことで戦況を変え、北条軍を退けて帰還したと整理しています。小田原城を守った北条と、帰路を突破した武田の、両方の強さを見る戦いです。

まずは一本の流れで置く

  1. 1569年、武田信玄が相模へ進み、小田原城を包囲する。
  2. 北条方は城を守り、武田軍は小田原城を落とせないまま引き上げる。
  3. 北条氏照・氏邦らは、甲斐へ帰る武田軍を三増峠付近で待ち受ける。
  4. 武田軍は、北条軍の待ち伏せを察し、部隊を分けて峠を越えようとする。
  5. 峠と周辺の高低差を使った戦いになり、激しい戦闘が起きる。
  6. 武田軍は北条軍を退け、甲斐への帰還に成功する。
  7. 北条方は小田原城を守り切った一方、野戦では武田軍を止め切れなかった。

誰が、どの立場で動いたのか

武田信玄小田原城を攻めた武田家の当主。城を落とせず帰路につき、三増で北条軍の迎撃を受けます。
北条氏政1560年から北条氏の当主。小田原城を守る北条家の中心として、武田の侵攻に向き合います。
北条氏康氏政の父で、北条氏を関東の大勢力に育てた三代目。1569年には家督を譲った後で、北条の基盤を作った世代として戦いの背景にいます。
北条氏照氏政の弟。甲州街道方面の守りを担い、武田軍を三増で待ち受ける北条方の前線を担います。
北条氏邦氏政の弟。鉢形城を拠点に秩父方面の守りを担い、氏照とともに武田軍の退路を押さえようとします。
山県昌景武田方の重臣。別働隊を率いて高所から動いたとされ、武田軍が峠を突破する流れで重要です。
三増峠相模から甲斐へ向かう山あいの地域。峠・沢・高低差が軍の進み方を左右しました。

なぜ小田原の後に、三増で戦うのか

小田原城を落とせない

武田軍は小田原城を包囲しますが、短期間で攻略できません。城を攻め続けるより、帰路を確保する必要が出ます。

北条は追う側になる

北条方は本拠を守れたため、今度は帰る武田軍を途中で止めることを考えます。守城戦から野戦へ、戦いの場所が移ります。

峠は逃げ道であり、止める場所

山道は大軍が自由に広がりにくく、待ち受ける側に有利な場所にもなります。三増は、甲斐へ抜ける武田軍を押さえる地点でした。

突破できれば武田の勝ち筋

武田軍にとっては、領地へ無事に戻ることが最優先です。三増では「敵を全滅させる」より、道を開いて帰ることが意味を持ちます。

氏康と氏政を、どう分けて見ればいい?

三増峠は「北条氏康と武田信玄の戦い」として語られがちです。氏康が北条氏の代表として強く印象に残るためです。

ただし、1560年に家督を継いだのは氏政で、1569年の小田原攻めを退けた当主も氏政です。三増の前線では氏照・氏邦が動きます。氏康はまだ存命ですが、ここは一人の名将対一人の名将ではなく、氏康が作った北条の仕組みを、氏政と兄弟たちが使った戦いとして見ると正確です。

勝ったのはどちら?

小田原城では北条

武田軍は小田原城を落とせませんでした。北条側は本拠と城下町を守り抜きます。

三増の野戦では武田

武田軍は北条軍を退け、甲斐への帰還に成功します。退却を阻止しようとした北条側の狙いは果たせませんでした。

戦略全体では簡単に決まらない

武田は小田原を取れず、北条は武田を捕まえられない。どちらも相手を完全に屈服させた戦いではありません。

だから次の動きが大事

北条は関東の守りをさらに固め、武田は駿河方面へ動きます。三増は、戦国東国の次の配置へつながる中間地点です。

北条の「兄弟で守る関東」が見える

三増峠の面白さは、氏政だけを見ても分からないところにあります。氏照は甲州街道方面、氏邦は秩父方面というように、北条氏は一族や家臣を各地の城と交通の要所に置いていました。

小田原に全員を集めるのではなく、広い関東の入口でそれぞれが軍を動かせることが北条の強さです。氏照の滝山城八王子城、氏邦の鉢形城へ広げると、北条の支城ネットワークが見えてきます。

河越から小田原、そして家康へ

1546年
河越合戦。氏康が勝利し、北条氏の関東進出が大きく進みます。
1560年
氏康が氏政へ家督を譲り、北条氏は次の世代へ移ります。
1569年
武田信玄が小田原城を攻め、帰路で三増峠の戦いが起きます。
1580年代
氏政・氏直の時代、北条氏の支配領域は最大級に広がります。
1590年
小田原征伐で北条氏が滅び、家康の関東入封へつながります。

ここだけ覚える

  • 三増峠の戦いは1569年、武田信玄が小田原城を攻めた帰路に起きた。
  • 小田原城は北条方が守り切ったが、三増の野戦では武田軍が突破して帰還に成功した。
  • 北条の当主は氏政で、氏照・氏邦が前線で武田軍を待ち受けた。
  • 氏康は存命だが、家督を譲った後。氏康が作った北条の基盤を次世代が使った戦いとして見る。
  • 城を守る力と、峠で敵を止める力は別物だと分かる。

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10問クイズ

Q1. 三増峠の戦いが起きた年は?

A. 1569年です。

Q2. 武田信玄が三増の前に攻めた城は?

A. 小田原城です。

Q3. 1569年の北条氏の当主は?

A. 北条氏政です。

Q4. 北条方で三増の前線を担った氏政の弟は?

A. 北条氏照と北条氏邦です。

Q5. 三増峠で武田軍は最終的にどうなった?

A. 北条軍を退け、甲斐への帰還に成功しました。

Q6. 三増峠の前に崩れた、武田・北条・今川の同盟は?

A. 甲相駿三国同盟です。

Q7. 北条方は、三増峠で武田軍に何をさせない狙いだった?

A. 甲斐への帰還・退路の突破です。

Q8. 三増峠で武田方の別働隊を率いたとされる重臣は?

A. 山県昌景です。

Q9. 三増峠を主線ではどう位置づける?

A. 同盟崩壊後、氏政と兄弟たちが北条の仕組みを使って武田を迎えた実戦です。

Q10. 三増峠の後、北条の当主として関東支配を担う人物は?

A. 北条氏政です。

参考にした資料