事件ページ / 1600年9月15日 / 美濃みの・関ヶ原

関ヶ原の戦いせきがはらのたたかい

関ヶ原の戦いは、徳川家と豊臣家が正面から戦った合戦ではありません。豊臣秀吉の死後、幼い秀頼を誰がどの仕組みで支えるのかをめぐって、豊臣政権内部の大名が二つの連合へ分かれた全国規模の政争です。美濃の一日だけでなく、会津・伏見・岐阜・上田・大津での動きと、合戦前から進んでいた交渉まで見ると、東軍が勝った理由がつながります。

1600年9月15日 徳川家康 石田三成 豊臣政権の分裂
先に結論

なぜ関ヶ原が起こり、なぜ東軍が勝ったのか

秀吉の死後、五大老・五奉行ごたいろう・ごぶぎょうを中心とする合議の均衡が崩れ、最大の大名・家康へ権力が集まりました。三成らはその動きを豊臣政権の決まりに反するとして挙兵します。しかし家康は合戦前から大名との結びつきと内応交渉を広げ、西軍は大軍を集めながら指揮と目的を一つにできませんでした。

01

秀吉死後の仕組みが揺れた

幼い秀頼に代わって政務を担う有力者の均衡が、前田利家の死と三成の失脚を経て崩れました。

02

家康が先に人を結んだ

婚姻・書状・起請文きしょうもんなどを通じて、大名との関係や戦後の保証を重ね、豊臣恩顧の武将も味方にしました。

03

西軍の大兵力が一斉に動かなかった

毛利勢は南宮山なんぐうさんで戦わず、小早川勢は途中まで動かず、島津勢も独自の判断を取りました。名目上の兵力がそのまま戦力になりませんでした。

04

内応が戦場で連鎖した

小早川秀秋が大谷吉継隊へ攻撃し、脇坂安治らも東軍側へ転じました。均衡していた戦線が西軍の側面から崩れました。

対立の正体

東軍と西軍は、徳川対豊臣だったのか

一般に家康方を東軍、三成らの側を西軍と呼びますが、両軍の多くは秀吉に仕えた大名でした。豊臣家当主の秀頼は大坂城にとどまり、自ら西軍を率いて関ヶ原へ出陣したわけではありません。両陣営とも「秀頼を支える豊臣政権」を名分にしながら、誰を政権の敵と見なすかが異なっていました。

東軍

家康を中心に「三成らの挙兵」を討つ

徳川譜代だけの軍ではありません。秀吉恩顧の大名が多数加わったことが、家康を全国的な連合の中心にしました。

西軍

家康の行動を批判し、政権の合議を立て直す

  • 毛利輝元――五大老、西軍の総大将として大坂に入る
  • 石田三成――挙兵を組織した五奉行の一人
  • 宇喜多秀家――五大老、本戦の主力を率いる
  • 大谷吉継――三成側に加わり、松尾山方面を警戒

三成は重要な組織者ですが、最大の大名でも総大将でもありません。大坂の輝元、戦場の諸大名を一つに動かす指揮の難しさがありました。

争点は「豊臣か徳川か」だけではない。秀頼を支えるという同じ名分の下で、家康中心の政権運営を認めるか、それを合議の破壊として止めるかが対立しました。戦後に家康が処分と領地配分を主導したことで、結果として徳川の優位が決定的になります。

1598年から1600年

秀吉の死から関ヶ原までの流れ

02

1599年、前田利家の死で均衡が崩れる

家康と並ぶ有力者だった前田利家が死去。その直後、福島正則ら武断派の武将が三成を襲撃しようとし、三成は政務の第一線を退いて佐和山さわやまへ戻ります。

03

1600年、家康が会津へ向かう

上杉景勝の軍備や上洛拒否が問題となり、家康は諸大名を率いて会津征伐へ出発します。大軍が東へ動いたことで、畿内の政治に空白が生まれました。

04

三成らが挙兵し、毛利輝元を迎える

三成、大谷吉継、宇喜多秀家らが動き、毛利輝元が大坂城へ入って総大将となります。奉行衆は「内府ちがひの条々ないふちがいのじょうじょう」を発し、家康の行動を糾弾しました。

05

伏見城攻防の間に、東軍が西へ反転する

西軍が伏見城を攻撃するなか、家康方の諸将は西へ戻る方針を固めました。よく知られる「小山評定」は、この決定過程を象徴する呼び名ですが、劇的な一場面としての細部には検討が必要です。伏見城はその後、8月1日に陥落します。

06

岐阜城が落ち、両軍が西美濃へ集まる

福島正則・池田輝政ら東軍の先鋒が織田秀信の岐阜城を攻略。西軍は大垣城を拠点とし、9月14日夜から関ヶ原方面へ移動しました。翌朝、霧と雨上がりの盆地で両軍が向き合います。

全国の関ヶ原

決戦は美濃だけで起きていたのではない

「関ヶ原の戦い」は9月15日の本戦だけでなく、その前後に全国で進んだ軍事行動と政治交渉の総称として見る必要があります。別の場所で大軍を引きつけた戦いが、本戦に到着する兵数と時間を変えました。

1600年9月15日

関ヶ原本戦は、どう動いたのか

兵数は史料や集計方法で大きく異なります。国立公文書館の解説では家康方約7万、三成方約8万とされますが、南宮山など実際に戦わなかった部隊をどう数えるかでも戦力の見え方は変わります。

東軍が宇喜多・小西・三成隊へ攻撃

井伊直政と松平忠吉が宇喜多隊へ発砲したとされ、福島正則隊も攻撃を開始。石田隊の島左近ら、西軍の主力は激しく抵抗し、戦況はすぐには決まりませんでした。

午前

家康が前方へ本陣を移す

家康は戦況を把握しやすい位置へ陣を進めます。一方、松尾山の小早川勢と、南宮山の毛利勢はまだ主戦闘へ加わっていませんでした。

正午前後

小早川勢が大谷隊を攻撃

小早川秀秋は西軍の位置に布陣しながら、事前に東軍と内応していました。松尾山まつおやまから大谷吉継隊へ攻め下り、脇坂安治らの転身も続きます。

午後

西軍主力が崩れ、島津勢が突破する

側面を突かれた大谷隊が崩れ、宇喜多・小西・石田隊も敗走。島津義弘隊は家康本陣近くをかすめて敵中を突破し、多くの犠牲を出しながら戦場を離れました。

勝敗を変えた判断

小早川・毛利・島津は、なぜ同じ西軍として動かなかったのか

転身

小早川秀秋

西軍側の松尾山に布陣しましたが、東軍との交渉は合戦前から進んでいました。戦場で突然気が変わったというより、どの時点で東軍への内応を実行するかを見極めていたと考える方が経過に合います。

「家康の問い鉄砲で決断した」は一説で、確実な同時代記録としては扱えません。
不戦

毛利秀元吉川広家

南宮山の毛利勢は大兵力でしたが、前方の吉川広家が家康方と領国保全を交渉し、進軍しませんでした。大坂の総大将・輝元の方針と、戦場の広家の判断が一致していなかったことを示します。

「宰相殿の空弁当」は不戦を風刺した後世の言い回しとして知られます。
独自行動

島津義弘

島津勢は西軍に加わりましたが、軍勢は島津家の総力ではなく、義弘の指揮する限られた兵でした。本戦では積極攻勢を控え、西軍崩壊後に正面突破で退却します。

戦後は家康との交渉を重ね、島津家の本領維持へつなげました。
勝因をまとめる

東軍の勝利を決めた五つの積み重ね

1

家康が広い大名連合をつくった

徳川譜代と秀吉恩顧の武将を同じ陣営へまとめ、家康個人の軍を超える規模にした。

2

岐阜城を早く落とし、西進路を確保した

東海道勢の素早い前進で西軍の東側防衛を崩し、家康本隊が関ヶ原へ入れる状況を作った。

3

調略が本戦前から進んでいた

黒田長政・藤堂高虎らを通じて小早川・脇坂・吉川らと接触し、相手の大軍を内側から動きにくくした。

4

西軍には一元的な指揮がなかった

総大将の輝元は大坂、三成は関ヶ原、各大名はそれぞれの利害を抱え、命令と作戦を一本化しにくかった。

5

小早川の攻撃が均衡を崩した

正面で善戦していた西軍に側面から新たな敵が加わり、内応が連鎖して総崩れへ進んだ。

戦場の後

関ヶ原で、豊臣から徳川へ何が動いたのか

関ヶ原の勝利だけで江戸幕府がその日に成立したわけではありません。しかし家康が敗者の処分、領地の没収・削減、味方への加増を主導したことで、全国の大名配置を決める権力が家康へ移ったことが明確になりました。

西軍主力が敗北家康が戦後処分大名配置を再編1603年に将軍就任豊臣家との緊張が残る

処刑・改易・減封

三成・小西行長・安国寺恵瓊あんこくじえけいは処刑。宇喜多秀家は逃亡後に流罪となり、毛利氏は中国の大領から周防すおう長門ながとへ、上杉氏は会津120万石から米沢30万石へ大幅に減らされました。

東軍大名を西国の要地へ

福島正則・池田輝政・黒田長政らが大きく加増され、西国の重要な城と地域へ移りました。恩賞であると同時に、豊臣家や旧西軍領を囲む配置でもありました。

豊臣家はすぐには滅びない

秀頼は大坂城に残り、高い家格と大きな経済力を保ちました。ただし豊臣家の蔵入地や旧臣の領地は家康の戦後処分で再編され、全国政権としての主導権は失われます。

江戸幕府から大坂の陣へ

家康は1603年に征夷大将軍せいいたいしょうぐんとなります。それでも大坂の豊臣家との二重構造は残り、1614・15年の大坂の陣まで緊張が続きました。

通説を確認

関ヶ原の戦いで、よく気になること

「天下分け目」は一日だけの戦い?

本戦は9月15日の半日ほどで決着しましたが、政争と軍事行動は数か月前から全国で進んでいます。関ヶ原だけを切り取ると、両軍がそこへ集まれた理由を見失います。

東軍7万、西軍8万で確定?

代表的な概数ですが、史料や数え方で違います。非戦闘部隊、南宮山の毛利勢、従者を含むかによって変わるため、厳密な確定値ではありません。

小早川秀秋は問い鉄砲で寝返った?

家康が松尾山へ鉄砲を撃たせて決断を迫ったという話は有名ですが、後世の記録に依存します。小早川と東軍の内応交渉自体は、合戦前から進んでいました。

西軍は三成の人望不足で負けた?

個人的な対立はありましたが、それだけでは不十分です。毛利家内部の方針差、各大名の領国事情、家康方の調略、総大将と戦場の距離など、連合軍の構造に原因がありました。

小山評定で全員が感動して東軍になった?

福島正則らが家康に従って西へ戻ったことは重要ですが、評定の劇的な発言や全員一致の描写には後世の脚色も含まれます。大名は書状や人質、領国の安全も踏まえて判断しました。

関ヶ原で豊臣家は滅亡した?

滅亡していません。秀頼は大坂城に残り、豊臣家は1615年まで続きます。関ヶ原は、豊臣家が全国を動かす政権から一大名家に近い立場へ変わる決定的な段階でした。

参考にした資料

公的機関・博物館の解説と、同時代の書状・日記を紹介する資料を優先しています。軍勢数、布陣、開戦時刻、逸話の細部は史料や研究によって異なるため、確定値として言い切っていません。

関ヶ原から、次にどこを読むか

開戦までの政局、戦場で決断した大名、勝利後の政権づくり。気になった方向から豊臣と徳川の転換を続けて読めます。