石田三成は、何をした人物なのか
三成は1560年、近江国坂田郡石田村、現在の滋賀県長浜市石田町に生まれました。長浜城主だった秀吉に見いだされ、1580年代から政権の実務へ進みます。少年が三杯の茶を温度と量を変えて出した「三献茶」は有名ですが、後世に整えられた逸話として史実の骨格とは分けます。
三成の仕事は文書作成だけではありません。土地と年貢を測る太閤検地、九州の大名への行政指導、忍城攻め、朝鮮への侵攻軍の監察・補給・報告、佐和山領の統治を担いました。1595年には19万4千石の大名となり、1596年の村掟では年貢や村の義務をかな交じりで細かく示しています。
秀吉の死後、家康と大名・奉行たちの対立が深まり、1599年には福島正則・加藤清正らの襲撃を受けて佐和山へ退きます。1600年、家康が会津方面へ出た隙に反家康勢力をまとめ、毛利輝元を大坂へ迎え、伏見城を攻略。関ヶ原では笹尾山に布陣して善戦しましたが連合軍は崩壊し、三成は捕縛・処刑されました。
秀吉政権の実務を動かした
太閤検地、大名統制、裁定、外交を通して、秀吉の命令を全国へ届かせました。
大軍の情報と補給をつないだ
九州、小田原、朝鮮で、兵糧・輸送・報告・軍目付を担いました。書類だけの仕事ではありません。
忍城水攻めを現地で指揮した
約二万の方面軍を率いましたが、水攻めそのものは秀吉の構想であり、三成一人の発案ではありません。
佐和山十九万石を治めた
城・家臣・村・軍役を持つ大名でした。「武力を持たない官僚」という理解では足りません。
反家康の大名連合を組織した
毛利輝元を総大将に迎え、宇喜多・大谷・小西らを結びました。三成が西軍全軍の主君だったわけではありません。
関ヶ原で連合の限界に敗れた
三成隊は笹尾山で戦いましたが、調略、不戦、寝返り、複数の指揮系統が重なり西軍は崩れました。
「嫌われたから負けた」で終わらせない。 三成個人の性格だけでは、毛利・宇喜多らが参加した理由も、三成隊が戦い続けた事実も、西軍が各地で動いた仕組みも説明できません。
三成は、気になるところから読める
関係人物と事件
| 石田正継・正澄 | 三成の父と兄。佐和山領の統治を支え、関ヶ原後の佐和山城攻撃で最期を迎えました。 |
|---|---|
| 豊臣秀吉 | 三成を登用した主君。検地、戦争、外交、大名統制を三成ら奉行へ実行させました。 |
| 豊臣秀頼 | 秀吉の幼い後継者。三成は秀頼を頂点に残す豊臣政権の中で反家康勢力を組織しました。 |
| 徳川家康 | 五大老の筆頭格。秀吉の死後に婚姻や大名との結びつきを広げ、三成らと対立しました。 |
| 前田利家 | 家康を抑える力を持った大老。1599年の死後、七将による三成襲撃が起こります。 |
| 大谷吉継 | 秀吉政権でともに働いた大名。1600年に西軍へ加わり、関ヶ原では松尾山を警戒しました。 |
| 島左近 | 三成の重臣。関ヶ原前日の杭瀬川と本戦の笹尾山麓で戦いましたが、登用逸話には後世の脚色もあります。 |
| 福島正則 | 秀吉子飼いの前線大名。1599年に三成と決裂し、関ヶ原では東軍先鋒となりました。 |
| 加藤清正 | 朝鮮の前線指揮官。戦況報告と政権運営をめぐる不満から三成と対立し、七将襲撃に加わりました。 |
| 小西行長 | 朝鮮で講和を進め、関ヶ原では西軍に参加。三成とともに京都で処刑されました。 |
| 毛利輝元 | 五大老の一人で、西軍の総大将として大坂城へ入りました。三成一人が西軍の頂点だったわけではありません。 |
| 宇喜多秀家 | 五大老の一人で西軍主力。関ヶ原では約1万7千の大軍で福島隊と戦いました。 |
| 小早川秀秋 | 松尾山に布陣し、戦場で東軍へ転じました。寝返りは大谷隊を崩し、西軍全体の敗走を招きます。 |
| 島津義弘 | 西軍に加わりましたが、作戦をめぐって三成方と十分に連携できず、戦場で孤立しました。 |
| 朝鮮出兵 | 三成が軍目付・兵站・報告・講和に関わり、前線大名との亀裂も深まった七年の侵攻戦争です。 |
| 伏見城の戦い | 西軍形成後、鳥居元忠が守る家康の畿内拠点を攻略した関ヶ原戦役の前哨戦です。 |
| 関ヶ原の戦い | 三成隊が笹尾山で戦い、西軍連合が一日で崩壊した決戦です。 |
三成を五段階で見る
1. 長浜の若い家臣
近江出身者として秀吉に仕え、情報・文書・使者の仕事を覚えました。
2. 統一政権の奉行
検地、九州、小田原、朝鮮で大軍と領地を動かす実務を担いました。
3. 佐和山の大名
19万4千石の領主として、家族・家臣と湖北四郡を治めました。
4. 反家康連合の組織者
文書と大名人脈を使い、毛利・宇喜多らを含む西軍を形成しました。
5. 関ヶ原の敗将
笹尾山で戦った後に近江へ逃れ、捕縛・処刑されました。
生涯年表
近江石田村に生まれる
近江国坂田郡石田村で石田正継の子として生まれました。
秀吉に仕える
長浜城主となった秀吉に見いだされたとされます。三献茶は後世の逸話です。
賤ヶ岳の戦い
秀吉と柴田勝家の決戦で、偵察・情報伝達などを担ったと伝わります。
治部少輔となる
従五位下・治部少輔に任じられ、「石田治部」と呼ばれる地位へ進みます。
九州平定の政務
島津氏をはじめ九州大名との連絡・行政指導に関わり、統一後の秩序を整えます。
忍城を水攻め
小田原攻めの別働隊を率い、秀吉が構想した水攻めを実行しました。
佐和山へ入る
秀吉直轄地を管理する代官として佐和山城へ入り、近江支配を担います。
朝鮮へ渡る
文禄の役で軍目付として渡海し、作戦、補給、諸将の行動と報告を扱いました。
講和と撤兵を調整
明軍参戦後の戦況で、釜山周辺への後退、報告、講和交渉に関わります。
佐和山19万4千石
湖北四郡を中心とする大領を与えられ、豊臣政権中枢の大名となりました。
村々へ掟を出す
年貢や村の義務を記した九ヶ条・十三ヶ条の掟を領内へ発布しました。
慶長の役
再侵攻では国内側から兵站・情報・大名統制に関わりました。
秀吉が死去
秀頼を残し、五大老・五奉行らによる合議で政権を支える時期へ入ります。
七将の襲撃
前田利家の死後、正則・清正らに襲われ、政権中枢を離れて佐和山へ退きました。
家康が会津方面へ
上杉景勝を討つため家康と諸大名が東へ進み、畿内の軍事的空白が広がります。
反家康勢力を組織
大谷吉継らと動き、家康の違反を列挙する文書を出し、毛利輝元を大坂へ迎えました。
伏見城が落城
鳥居元忠が守る伏見城を西軍が攻略し、畿内の家康拠点を排除します。
大垣から関ヶ原へ
西軍主力は夜間に大垣方面から関ヶ原へ移動し、三成は笹尾山へ布陣しました。
関ヶ原で敗れる
三成隊は東軍の攻撃を支えましたが、小早川秀秋らの転身後に西軍全体が崩れます。
佐和山城が落ちる
東軍が城を攻め、父・正継や兄・正澄らが最期を迎え、石田家の領国は失われました。
近江で捕らえられる
伊吹山地を越えて故郷に近い古橋方面へ逃れましたが、田中吉政方に捕らえられます。
京都で処刑
小西行長・安国寺恵瓊とともに六条河原で処刑されました。
近江石田村――三献茶は入口、証拠ではない
三成は石田正継の子として、現在の長浜市石田町に生まれました。父の正継は後に佐和山の領国支配を支え、兄の正澄も秀吉政権と石田家の実務に関わります。三成の政治力は一人の才能だけでなく、家族と近江出身の家臣団にも支えられていました。
鷹狩り帰りの秀吉へ、最初は大きな茶碗でぬるい茶、次は量を減らし、最後は小さな茶碗で熱い茶を出したという三献茶は、相手を読む三成像をよく表します。ただし同時代の記録で確認できる出会いではなく、江戸時代に広がった人物伝です。
賤ヶ岳――槍ではなく情報で戦う
1583年の賤ヶ岳では、福島正則や加藤清正が前線の武功で名を上げました。三成は偵察や情報収集、伝令などを担ったと伝わります。戦場を、槍で敵を倒す場だけでなく、地形、敵情、兵糧、移動時間を把握する場として経験しました。
これを「三成は戦わず、正則らだけが戦った」と分けるのは不正確です。情報と補給がなければ大軍は動かず、三成自身も後に忍城の方面軍と佐和山19万石の兵を指揮します。役割が異なる武将たちを秀吉が組み合わせたことが重要です。
奉行とは何をする人だったのか
太閤検地で土地と年貢を測る
検地で土地の面積・生産力・耕作者を把握し、政権と大名の軍役・収入の基準を整えました。
命令を地方へ通す
九州の島津氏などと書状を交わし、秀吉の命令を領国運営へ落とし込みました。
軍を動かす
兵、米、船、武器、道路、宿、報告を組み合わせ、各大名の軍事行動を政権全体へ接続しました。
裁定と外交を行う
領地争い、大名間の調整、対外使節との交渉など、秀吉の判断を実行する窓口となりました。
奉行は現代の役所勤めに似た一面を持ちますが、武力を持たない官僚ではありません。秀吉の命令を背景に大名を動かし、自分も領地・家臣・兵を持つ武将です。「五奉行」は政権中枢を説明する便利な呼び名ですが、常に同じ五人が同じ権限で動く固定内閣だったわけではありません。
五奉行を並べると、三成の役割が見える
「五奉行」は後世の整理も含む呼び名で、五人が同じ仕事を均等に分けた固定内閣ではありません。それでも、担当分野と人脈を比べると、三成が検地・大名統制・軍事運営・外交を横断した位置が分かります。
忍城水攻め――三成個人の無謀な作戦ではない
1590年の小田原攻めで、三成は約2万の別働隊を率いて武蔵国忍城を包囲しました。城の周囲に長い堤を築き、利根川・荒川の水を引く水攻めを行います。しかし忍城は小田原城の開城後まで持ちこたえ、「浮き城」と呼ばれました。行田市の忍城跡解説では、堤が全長約28kmに及んだと紹介されています。
この結果から、三成の戦下手を示す代表例として語られがちです。ところが行田市の調査では、秀吉が当初から水攻めを構想し、派遣武将へ堤工事を命じ、完成後に自ら見物すると伝えていました。三成は総大将として現場を実行した責任を負いますが、作戦の発案を三成一人へ帰すことはできません。
水攻めは城を落とす軍事行動であると同時に、巨大な堤を短期間で作らせる動員力を見せる政治的演出でもありました。失敗した戦術だけでなく、秀吉政権が人夫・資材・河川を動かした規模を見る必要があります。
朝鮮出兵――監察・補給・講和と侵攻責任
1592年、秀吉が朝鮮侵攻を始めると、三成は増田長盛・大谷吉継らと軍目付として渡海しました。諸大名の行動、兵糧、戦況を把握して秀吉へ報告し、現地軍の作戦を政権へつなぐ役割です。
日本軍が北へ進み補給が難しくなり、明軍と朝鮮側の反撃が強まると、三成は南部への後退や講和交渉に関わります。小西行長らの交渉と秀吉の要求の間には大きな隔たりがあり、講和は最終的に破綻しました。
三成を「戦争を止めようとした和平派」だけにすると不十分です。三成は侵攻軍の運営を支えた責任者であり、占領と戦争被害を生んだ側にいました。同時に、前線大名の行動を評価・報告する立場が、清正・正則らとの不信を深めたことも関ヶ原前史になります。
佐和山19万4千石――中央の官僚ではなく領主
1591年、三成は秀吉直轄地の代官として佐和山へ入り、1595年には19万4千石を与えられました。佐和山は京都から東国・北国へ向かう東山道と琵琶湖交通に近く、豊臣政権が東西を結ぶ重要拠点です。
三成の時代には山城だけでなく、山麓の屋敷、堀、土塁、城下を囲む惣構の整備が進みました。父・正継、兄・正澄、島左近らを配置し、湖北の伊香・浅井・坂田・犬上四郡を治めます。
関ヶ原後、佐和山は井伊直政へ与えられ、のちに彦根城が築かれました。現在は建物や大規模な石垣がほとんど残りませんが、調査で中世城郭の遺構が確認されています。「三成に過ぎたる佐和山の城」という後世の豪華城郭像と、現存遺構は分けて考えます。
村掟――民政は「善政」の一語で終わらない
1596年、三成は佐和山領内の村々へ九ヶ条・十三ヶ条の掟を出しました。年貢の納入、代官や百姓の義務、争いの処理などを示し、村人にも読まれやすいよう、かな交じりで詳しく記しています。
これは領民思いの名君像を語る材料になりますが、内容の中心には年貢と支配の秩序があります。分かりやすくルールを示すことは、百姓の負担を一定にする一方、政権と領主が村を把握し徴税する力を強めることでもありました。三成の統治は配慮と統制の両面から見ます。
秀吉死後――五大老と奉行の合議
1598年に秀吉が死ぬと、後継者の秀頼は幼少でした。徳川家康、前田利家、毛利輝元、宇喜多秀家、上杉景勝ら大老と、三成、前田玄以、増田長盛、長束正家、浅野長政ら奉行が、遺命と起請文に基づいて政権を支えます。
家康は大名との婚姻や私的な結びつきを広げ、最大の領地と軍事力を背景に主導権を強めました。三成らは家康だけが決定を進めることを問題にします。ただし、家康対三成の二人だけが最初から天下を争ったわけではなく、各大老・奉行・大名が家の存続と領地を考えて動く合議の崩壊でした。
七将襲撃――「武断派対文治派」だけでは足りない
1599年、家康を抑える力を持った前田利家が死ぬと、福島正則、加藤清正、黒田長政、細川忠興らが三成を襲撃しようとしました。三成は伏見へ逃れ、家康の調停によって奉行職を離れ、佐和山へ退きます。
後世には、三成が敵である家康の屋敷へ逃げ込んだという劇的な話が広まりました。しかし逃走先と経路には史料上の議論があり、家康本人へ助命を求めたと断定できません。
また「武断派対文治派」も便利な整理ですが、正則らが戦うだけ、三成が書類だけだったわけではありません。朝鮮出兵の報告、恩賞、縁組、領地、家康との関係が重なり、同じ豊臣家臣団が割れた事件です。
西軍を作る――三成は総大将ではない
1600年、家康は上杉景勝を討つため諸大名と東へ進みました。佐和山にいた三成は大谷吉継らと反家康の行動を始め、家康が秀吉の遺命に背いたとする「内府ちかひの条々」を諸大名へ示します。
大坂城には五大老の毛利輝元が入り、西軍の総大将となりました。宇喜多秀家は大軍を率い、奉行の長束正家・増田長盛・前田玄以、安国寺恵瓊、小西行長、島津義弘らも加わります。三成は連合形成の中心ですが、毛利・宇喜多・奉行衆を命令だけで動かせる唯一の主君ではありません。
この構造が西軍の強さと弱さでした。豊臣政権の正統性、大坂城、毛利・宇喜多の軍事力を利用できる一方、参加理由も指揮系統も一つではなく、各軍の足並みを揃えるのが難しい連合でした。
伏見城――関ヶ原戦役の最初の大攻城戦
家康の畿内拠点・伏見城には鳥居元忠らが残っていました。西軍は7月から城を包囲し、8月に攻略します。三成方は畿内を押さえ、大坂と西国の連絡を確保しましたが、攻城には時間と兵力を使いました。
関ヶ原を9月15日の野戦だけにすると、三成の戦略は見えません。大坂城の確保、伏見城攻略、北陸・伊勢・美濃の城攻め、東海道軍の西進が重なった全国戦役であり、三成は文書と軍事を同時に動かしていました。
関ヶ原――三成隊はすぐに崩れていない
西軍主力は大垣方面から夜間に関ヶ原へ移り、三成は北国街道を押さえ、盆地を見渡せる笹尾山に陣を置きました。麓には島左近らが布陣し、東軍の黒田長政、細川忠興、竹中重門、田中吉政らと戦います。
三成隊は開戦直後に崩壊したわけではなく、東軍の攻撃を長時間支えました。家康は午前11時ごろ、戦況を近くで把握するため笹尾山正面へ本陣を進めています。三成を「人望がなく、誰も戦わなかった」とする像では、この抵抗を説明できません。
小早川秀秋が松尾山から大谷吉継隊へ攻めかかり、脇坂安治らも東軍へ転じると西軍南部が崩れました。宇喜多・小西・三成の各隊も退却します。敗因を秀秋一人の裏切りだけにせず、毛利軍が動かなかったこと、東軍諸将の調略、西軍の指揮系統、各戦線の崩壊を重ねて見ます。
敗走、佐和山落城、捕縛
三成は伊吹山方面へ逃れ、湖北の古橋周辺へ向かいました。再起を目指したとも、故郷の支援を頼ったとも考えられますが、田中吉政の探索隊に捕らえられます。吉政は近江出身で三成と地域的なつながりを持つ東軍大名でした。
その間に佐和山城は東軍の攻撃を受け、父・正継、兄・正澄らが最期を迎えました。三成個人の敗北は、家族、家臣、城下、村を含む19万4千石の領国崩壊でもありました。
三成は大津で家康と対面したのち、大坂・堺を引き回され、小西行長・安国寺恵瓊とともに京都六条河原で処刑されました。享年41。首は三条河原にさらされ、遺体は大徳寺三玄院に葬られたと伝わります。
清正・正則との違いを整理する
三成
検地・兵站・外交と佐和山領を担い、秀吉死後は反家康連合を作りました。
加藤清正
肥後半国と朝鮮の前線を担い、1600年には九州で小西領を攻めました。
福島正則
清洲24万石から東軍先鋒となり、関ヶ原本戦で宇喜多隊と戦いました。
単純な二派ではない
三人とも軍事と行政を担う豊臣大名で、役割・領地・報告経路の違いが政治対立へつながりました。
後世の三成像――悪役から義将へ
江戸時代の軍記や徳川中心の物語では、三成は狭量で人望のない敗者として描かれました。近代以降も「官僚型で戦下手」という像が続きます。一方、近年の地域顕彰や創作では、豊臣への忠義と合理性を持つ義将へ大きく反転しました。
「大一大万大吉」の印は三成の旗印として有名ですが、同時代の確実な使用例や「一人は万人のために」という意味づけには検討が必要です。三献茶、大谷吉継の茶碗、島左近への半分の禄、処刑前の干し柿も人物像を伝える逸話ですが、会話の細部まで史実とは限りません。
悪人か忠臣かを選ぶより、残された書状、検地、村掟、城跡、戦場配置から、何を決め、誰を動かし、どこで限界に直面したかを見る方が三成の輪郭は厚くなります。
三成を三つの顔で整理する
統一政権の実務者
検地、行政指導、戦争、外交を通じ、秀吉の命令を全国へ通しました。
佐和山の大名
19万4千石の領地、家臣団、城、村を持ち、自ら軍を率いる武将でした。
反家康連合の組織者
豊臣政権の仕組みと大名人脈を使い、西軍を形成しましたが統一指揮には限界がありました。
五つの場所で生涯を追う
近江石田村
三成が生まれ、秀吉との出会いと最期の逃走が結びつく故郷です。
武蔵忍城
方面軍を率い、秀吉の水攻め構想を実行した戦場です。
朝鮮半島
侵攻軍の監察・補給・報告・講和に関わり、前線大名との亀裂も深まった場所です。
近江佐和山
19万4千石の領国を治め、反家康の行動を始めた本拠です。
美濃関ヶ原
笹尾山で東軍を迎え、政治連合の力と限界が一日に現れた決戦地です。
石田三成の通説・疑問を確かめる
三献茶で秀吉に見いだされた?
人物像をよく表す逸話ですが、同時代史料で確認できる出会いではありません。 江戸時代に広がった人物伝として楽しみ、三成の登用経路そのものとは分けます。
三成は戦が苦手な官僚だった?
武力を持たない官僚ではありません。 忍城では方面軍を率い、佐和山十九万四千石の兵と家臣団を持ち、関ヶ原では笹尾山で自軍を指揮しました。
忍城の水攻めは三成の発案?
秀吉が当初から水攻めを命じていました。 三成は現地総大将として工事と攻城を実行した責任を負いますが、作戦を一人で発案したとは言えません。
太閤検地は便利な行政改革だった?
土地と耕作者を把握する一方、徴税と軍役を政権へ結び直す統制でした。 効率化だけでなく、在地社会の権利関係を組み替える強制力も見ます。
朝鮮出兵を止めようとした和平派?
講和と撤兵の調整には関わりましたが、侵攻軍運営の責任者でもありました。 和平努力だけで戦争への加担と被害を消すことはできません。
清正・正則とは文治派対武断派だった?
役割の違いを示す便利な整理ですが、固定された二派ではありません。 三成も軍を率い、清正・正則も領国行政を行います。朝鮮での報告経路、恩賞、政治判断の対立が重要です。
七将に襲われて家康屋敷へ逃げた?
有名な場面ですが、1599年の移動先と経路には議論があります。 確かなのは、襲撃後に家康の仲介を受け、奉行職を離れて佐和山へ退いたことです。
三成が西軍の総大将だった?
西軍の形成を主導しましたが、名目上の総大将は毛利輝元です。 宇喜多秀家らの大軍も独自の主従関係を持ち、三成が全軍へ一方的に命令できる構造ではありません。
小早川秀秋だけが敗因?
寝返りは決定的でも、それだけではありません。 東軍の事前調略、吉川広家の不戦、毛利軍の停滞、指揮系統の分散、別戦線の遅れが重なりました。
大一大万大吉や干し柿の話は史実?
旗印の確実な使用例や言葉の意味、処刑前の会話には後世の脚色が含まれます。 島左近への厚遇なども、逸話だけで三成の内面を断定しません。
三成から戦国後半を読むと
三成の前半は、秀吉が戦場の勝者から全国政権の支配者へ変わり、検地・文書・大名統制で日本を測り直す過程です。中盤は、その統一政権が巨大な軍事力を朝鮮へ向け、補給と外交の限界に直面する過程。後半は、秀吉個人が消えた後、合議と主従関係が崩れて関ヶ原へ向かう過程です。
賤ヶ岳、太閤検地、忍城、朝鮮出兵、佐和山、七将襲撃、上杉問題、伏見城、関ヶ原が一人の生涯に入っています。三成は「槍で勝つ戦国」だけでなく、土地・米・書状・同盟・正統性を組み合わせて政権を作る時代を読める人物です。そして関ヶ原は、実務能力が高ければ連合を一つにできるとは限らないことも示しました。
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大谷吉継
敦賀を治め、三成とともに西軍へ加わり、松尾山を警戒した大名を見る。
福島正則
同じ秀吉家臣団から三成と決裂し、東軍先鋒へ進んだ武将と比べる。
加藤清正
朝鮮の前線と肥後を担い、報告・政権運営をめぐって三成と対立した大名を見る。
徳川家康
秀吉死後に合議の中から主導権を広げ、東軍を形成した側から読む。
毛利輝元
西軍総大将として大坂城へ入り、戦後に中国八か国を失った大老を見る。
小早川秀秋
秀吉一門から松尾山へ進み、戦場で東軍へ転じた若い大名を見る。
朝鮮出兵
三成の軍目付・兵站・講和を、日本・朝鮮・明が戦った七年の全体像で読む。
伏見城の戦い
西軍が家康の畿内拠点を攻めた、関ヶ原戦役最初の大攻城戦を見る。
関ヶ原の戦い
笹尾山だけでなく、全国の東西両軍、調略、戦後処理まで確認する。
豊臣秀頼
三成の死後も大坂城に残り、徳川政権との緊張を引き継いだ秀吉の後継者を見る。
10問クイズ
Q1. 石田三成が生まれた国と村は?
A. 近江国坂田郡石田村です。
Q2. 三成を登用した主君は?
A. 豊臣秀吉です。
Q3. 三成が土地の面積・生産力・耕作者を把握した政策は?
A. 太閤検地です。
Q4. 1590年に三成が水攻めを行った城は?
A. 武蔵国の忍城です。
Q5. 忍城水攻めを当初から構想していた人物は?
A. 豊臣秀吉です。三成は方面軍総大将として実行しました。
Q6. 三成が19万4千石を治めた居城は?
A. 近江の佐和山城です。
Q7. 1599年、三成襲撃の直前に死去した大老は?
A. 前田利家です。
Q8. 西軍の総大将として大坂城へ入った人物は?
A. 毛利輝元です。
Q9. 関ヶ原で三成が布陣した場所は?
A. 笹尾山です。
Q10. 三成とともに京都六条河原で処刑された二人は?
A. 小西行長と安国寺恵瓊です。
参考資料
出生、太閤検地、佐和山領と村掟は長浜城歴史博物館、佐和山城と石高は彦根市、忍城水攻めと秀吉の命令は行田市、朝鮮出兵と処刑は長浜市、関ヶ原の布陣・戦闘・捕縛は岐阜関ケ原古戦場記念館を中心に整理しました。三献茶、旗印、島左近、干し柿などは後世の逸話を含むため、行政文書・城跡・戦場記録と分けています。